ヒトとチンパンジーの脳の違いを発見

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霊長類脳の遺伝子発現変動とエピジェネティック変動の網羅的解析

2018-08-02 自然科学研究機構生命創成探究センター,自然科学研究機構生理学研究所,自然科学研究機構基礎生物学研究所,新潟大学脳研究所,京都大学霊長類研究所,京都大学野生動物研究センター

【発表者】
Chang Xu(中国科学院上海生命科学研究院・大学院生)
Qian Li(中国科学院上海生命科学研究院・大学院生)
Liu He(中国科学院上海生命科学研究院・大学院生)
辰本 将司(自然科学研究機構生命創成探究センター・特任研究員)
Vita Stepanova(スコルコボ科学技術大学・大学院生)
大石 高生(京都大学霊長類研究所・准教授)
鵜殿 俊史(京都大学野生動物研究センター・特任研究員)
山口 勝司(自然科学研究機構基礎生物学研究所・技術職員)
重信 秀治(自然科学研究機構基礎生物学研究所・特任准教授)
柿田 明美(新潟大学脳研究所・副所長)
那波 宏之(新潟大学脳研究所・所長)
Philipp Khaitovich(中国科学院上海生命科学研究院・教授,スコルコボ科学技術大学・教授)
郷 康広(自然科学研究機構生命創成探究センター・特任准教授,自然科学研究機構生理学研究所・特任准教授)

【発表のポイント】
・ヒトとチンパンジーの脳における遺伝子発現を比較した結果,ヒトの脳においてより多くの遺伝子発現が変動*1していることが明らかになった
・ヒト特異的な発現変動している遺伝子群(モジュール*2)の半数以上が海馬のニューロン*3やアストロサイト*4において発現が上昇していた
・ヒトとチンパンジーの発現変動には転写因子*5の活性が主に関与しており,脳の領域差には,プロモーター*6領域のクロマチン*7修飾状態の違いが主に関与していることが明らかになった

【概要】
ヒトの脳のどこでどのような遺伝子が働いているかを調べることは,ヒトの高次認知機能を理解する上でも大変重要ですが,それだけでは,いきものとしてのヒトの個性や特異性を理解するには不十分です.自然科学研究機構 生命創成探究センターの郷 康広 特任准教授(自然科学研究機構生理学研究所・特任准教授 併任)らは,中国科学院上海生命科学研究院,スコルコボ科学技術大学,自然科学研究機構基礎生物学研究所,京都大学霊長類研究所,京都大学野生動物研究センター,新潟大学脳研究所との国際共同研究として,ヒトの脳にのみ現れる特徴を見つけ出し, ヒトの脳を理解するために, ヒト,チンパンジー,ゴリラ,テナガザル,およびマカクザルを対象とし,機能の異なる複数の脳領域で計測された遺伝子発現データおよびクロマチン修飾データの分析を実施しました.
本研究グループは, 4種の霊長類の8つの脳領域にわたる空間的な遺伝子発現動態を詳細に解析することで,ヒトの脳において特異的な発現変化を示す複数の遺伝子群(モジュール)を発見し,そのモジュールに分類される遺伝子の数はチンパンジーと比べて7倍以上に及ぶことを明らかにしました.さらに,ヒトとチンパンジーの種の違いは,主に転写因子の発現状態・結合状態の差に起因するものであり,一方で,脳の領域間の差には,プロモーター領域におけるクロマチン修飾状態の違いが主に関与していることも明らかにしました.
本研究結果は,米国コールド・スプリング・ハーバー研究所発行の学術誌Genome Research誌(2018年8月1日)に掲載されました.

【研究の背景】
ヒトの脳の肥大化,特に前頭前野の肥大化と,その結果としての高次認知機能の獲得や言語使用などによる複雑なコミュニュケーション能力の獲得は,ヒトが他の霊長類と大きく異なっている部分です.本研究グループは,ヒトの最も大きな特徴である脳の進化を「ヒトとは何か?」という問いに対するひとつの切り口として捉え,ヒトとヒトに近縁な霊長類(チンパンジー・ゴリラ・オランウータン・テナガザル・マカクザル)を対象とし,それぞれの脳において遺伝子の発現がどのように時空間的に制御され表現型として現れるのか,その分子基盤を解明することを目的として研究を行いました.
また,本研究で用いられたマカクザル以外の霊長類はいずれも国際自然保護連合が定める絶滅危惧種*8に指定されており,侵襲的な実験が不可能であるため,脳などの組織を研究に利用するためには,ヒトと同様に死後脳を利用する必要があります.しかし,日本の動物園や研究機関で飼育されている個体数が少ないため(ゴリラは平成30年7月現在で21頭),研究利用が極めて制限されており,脳研究などの実験研究は進んでいない現状がありました.

【研究の成果】
本研究グループは,ヒト脳の生物学的な特異性を明らかにすることを目的とし,ヒトの脳内における遺伝子の発現地図を作成した上で,ヒト6個体,チンパンジー6個体,ゴリラ2個体,テナガザル1個体の死後脳8領域(運動前野,前頭前野背外側部,前頭前野腹外側部,一次視覚野,前帯状皮質,線条体,視床,小脳)を対象とした比較トランスクリプトーム*9解析を行い,その結果を比較しました.本研究グループが,遺伝子発現が共に変動している共発現遺伝子の類似性をもとにクラスター解析を行ったところ,24のモジュールが発見され,そのうち4つがヒトに特異的,1つがチンパンジーに特異的なモジュールであることが分かりました.240個の遺伝子がチンパンジーの系統でのみ変動したのに対し,ヒト特異的な発現変動を示す遺伝子は1851個にも及ぶことが明らかとなりました.さらに,ヒト特異的な遺伝子の半数以上が,ヒト海馬のニューロンおよびアストロサイトにおいて遺伝子発現上昇を示すことも明らかになりました(図1).
また本研究グループは,遺伝子発現の制御に重要なエピジェネティック*10変動,特に転写を促進すると考えられているヒストンのアセチル化状態の変動を調べるために,先行研究において得られたデータを用い,遺伝子発現の統合的な解析を行いました.その結果,ヒトとチンパンジーの種間において遺伝子発現の差を生み出す主な要因は転写因子の発現状態・結合状態に起因するものであり,一方で,脳の領域間の差には,プロモーター領域におけるクロマチンのアセチル化の状態の違いが主に関与していることを明らかにしました(図2).

【今後の展開】
今回の研究で行われた,脳の複数領域における網羅的な遺伝子発現解析やエピジェネティクス解析では,実験に使用した脳領域に存在する細胞の構成(細胞種やその存在比)が同じであるという前提がありました.しかし,その前提が本当に正しいかどうかの証明はまだ出来ていません.近年のゲノム解析技術の進歩により,一つの細胞(単一細胞)だけを用いた遺伝子発現解析やエピジェネティック解析が可能になりつつあるため,郷特任准教授は「今後,単一細胞での解析を通じて,今回の研究で用いた脳領域の細胞群がヒトとチンパンジーで同様であるかの検証を行いたい.また,単一細胞を解析する技術の活用は,真の意味でヒトに特異的な特性をもつ細胞種を明らかにできる可能性も秘めており,細胞の個性を細胞単位で明らかにする技術開発を進めていきたい」と話しています.

【用語解説】
*1:遺伝子発現の変動
遺伝情報が書かれているDNAから,細胞や組織の構造や機能に必要な情報をその都度RNAに写し変える過程を遺伝子発現と呼ぶ.細胞や組織に必要な情報は,それぞれ細胞種・組織によって異なり,さらに同じ細胞・組織でも時間的に異なる.同様に同じ組織でも種が異なればその使われ方も異なり,それが種の違いにつながる.その違いは遺伝子発現の変動によって生み出される.
*2:モジュール
もともとは工学やIT関連用語で,あるシステムを構成するまとまりのある機能を持った構成単位を指す言葉.転じて,生物学では,あるまとまりのある機能を共有する構成集団(本研究では遺伝子の集団)を指す言葉として用いられる.
*3:ニューロン
動物の脳神経系を構成する細胞群で情報処理と情報伝達に特化した機能を有する細胞を指す.
*4:アストロサイト
中枢神経系に存在するグリア細胞の1つであり,ニューロン(神経細胞)と協調してシナプス伝達の効率の調整や,イオン濃度調節などの役割を果たしている.
*5:転写因子
DNAからRNAへの転写を制御するプロモーター領域やエンハンサー領域に特異的に結合するタンパク質の一群で,転写の促進や抑制に関与する.
*6:プロモーター
DNAが鋳型となりRNAへと合成(転写)が開始される際に転写因子が結合する遺伝子の上流領域を指す.
*7:クロマチン
真核生物の細胞核内にありDNAとヒストンなどの核タンパク質複合体の複合体を指す.ヒストンのアセチル化,メチル化,リン酸化,ユビキチン化などの化学修飾は,遺伝子発現の制御に深く関わっている.
*8:絶滅危惧種
国際自然保護連合(International Union for Conservation of Nature and Natural Resources)が定める絶滅の危機にある生物種を指す.本研究で用いた類人猿のうちチンパンジーとゴリラは絶滅寸前種(Critically Endangered species),テナガザルは絶滅危惧種(Endangered species)に分類されている.
*9:トランスクリプトーム
ある組織や細胞中に存在するDNAから転写された転写産物(RNA)の総体を指す言葉.DNAは原則として同一個体内のすべての細胞で同一だが,トランスクリプトームは,同一の個体内でも組織や細胞ごとにその構成が異なる.
*10:エピジェネティクス
DNA配列そのものに変異がなくてもDNAやDNAに結合するヒストンタンパク質などに組織・細胞特異的な化学修飾が起きることにより後天的に遺伝子発現の変化が起きる状態や遺伝的な仕組みのことを指す.

【論文情報】
掲載誌:Genome Research
論文タイトル:
Human-specific features of spatial gene expression and regulation in eight brain regions
(複数脳領域における遺伝子発現と発現制御様式からみたヒト脳の特異性)
著者:
Chuan Xu#, Qian Li#, Olga Efimova, Liu He, Shoji Tatsumoto, Vita Stepanova, Takao Oishi, Toshifumi Udono, Katsushi Yamaguchi, Shuji Shigenobu, Akiyoshi Kakita, Hiroyuki Nawa, Philipp Khaitovich*, Yasuhiro Go* (#共同筆頭著者,*責任著者)
掲載日:2018年8月1日
DOI: 10.1101/gr.231357.117

【研究グループ】
中国科学院上海生命科学研究院(中国),スコルコボ科学技術大学(ロシア),京都大学霊長類研究所,京都大学野生動物研究センター,自然科学研究機構基礎生物学研究所,新潟大学脳研究所,自然科学研究機構生理学研究所,自然科学研究機構生命創成探究センターの共同研究

【研究サポート】
The Strategic Priority Research Program of the Chinese Academy of Sciences (grant number XDB13010200), the National Natural Science Foundation of China (grant numbers 31420103920, 91331203), the National One Thousand Foreign Experts Plan (grant number WQ20123100078), the Russian Science Foundation (grant numbers 16-14-00220) (Philipp Khaitovich)
科学研究費助成事業 JP22770240, JP25711027, JP26640065, JP16H04849,基礎生物学研究所共同利用研究 12-311, 13-725, 14-714, 15-815, 16-460,新潟大学脳研究所共同利用研究 2011-2310, 2012-2414, 2014-2625,京都大学霊長類研究所共同利用研究 2013-E-27, 2014-B-57, 2015-B-60, 2016-B-93, 2017-B-49(郷 康広)

【本研究に関するお問い合わせ先】
自然科学研究機構生命創成探究センター
特任准教授 郷 康広(ごう やすひろ)

【広報に関するお問い合わせ先】
自然科学研究機構 生命創成探究センター 広報担当
自然科学研究機構 生理学研究所 研究力強化戦略室
自然科学研究機構 基礎生物学研究所 広報室
新潟大学脳研究所 共同利用係
京都大学 総務部広報課 国際広報室

【添付資料】
fig1.jpg図1.ヒトとチンパンジーの死後脳における発現変動遺伝子の解析.
ヒトとチンパンジーにおいて遺伝子発現変動を示す9726遺伝子を発現パターンの類似性をもとにクラスター解析した結果,24個のクラスター(モジュール)に分類することが可能となった.そのうち4つがヒト特異的,1つがチンパンジー特異的なモジュールであり,それぞれに分類される遺伝子の数の合計はヒトがチンパンジーの7倍以上(それぞれ1851遺伝子と240遺伝子)を占めていた.
fig2.jpg図2.種差・脳の領域差を生み出す遺伝子発現制御機構.
ヒトとチンパンジーの間の遺伝子発現の差には,転写因子の発現状態変化や結合状態の変化が主な要因となっているのに対して,脳の異なる領域における遺伝子発現の差を生み出す主な要因は,プロモーター領域のクロマチン修飾状態の違いであることを明らかにした.

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