2023-10-19 広島大学
本研究イメージ図 (credit: Kyoto University/ASHBi)
本研究成果のポイント
- 本研究では、ヒト脳オルガノイド【注1】それ自体に固有の懸念(ヒト脳オルガノイドが「意識」を持つのではないかというもの)にも注目することで、従来指摘されてきた倫理問題にとどまらず、動物移植を進める際に生じうる、短期的、また中長期的な倫理問題を体系的に明らかにしました。
- 2018年以降、ヒト脳オルガノイド(体外で作られる立体的なヒトの脳組織)を動物の脳に移植する研究が多数報告されています。こうした研究は、移植しなければできない基礎研究(ヒトの脳組織をより成長させるなど)や応用研究(脳の疾患モデルを作るなど)、さらには将来的な移植医療への応用のために行われています。
- ヒト脳オルガノイドの動物移植に対しては、生命倫理の観点からも活発な議論が行われてきました。しかし従来の議論では、移植を受けた動物の認知能力が向上してしまうのではないかという懸念に関心が集中していました。
概要
広島大学大学院人間社会科学研究科 片岡雅知 研究員、澤井努 准教授(京都大学 高等研究院ヒト生物学高等研究拠点 連携研究者)、マードック・チルドレンズ研究所(オーストラリア)クリストファー・ギンジェル研究員、シンガポール国立大学生命医学倫理センター長 ジュリアン・サヴァレスキュ教授の研究グループは、ヒト脳オルガノイド(体外で作られる立体的なヒトの脳組織)を動物の脳に移植する研究において生じる倫理問題を体系化しました。従来、ヒト脳オルガノイドの動物移植の倫理的是非は盛んに議論されてきましたが、中心的な論点はヒト脳オルガノイドを移植された動物の認知能力が向上することの倫理的是非でした。
こうした中で本研究は、ヒト脳オルガノイド研究に固有な問題(ヒト脳オルガノイドが「意識」を持つのではないかというもの)に注目するとともに、動物移植における一連の研究過程を、細胞提供者による研究への細胞提供からヒト脳オルガノイド移植後の動物の利用まで複数の段階に分類することで、それぞれの段階で短期的に、また中長期的にどのような倫理問題が生じうるのかを体系的に明らかにしました。今後、ヒト脳オルガノイド研究の進捗に応じて、科学者や倫理学者のような専門家、さらに市民のような非専門家も交えて、動物移植研究の各段階において生じうる論点をより詳細に検討することが求められます。
本研究成果は、2023年10月4日に学術誌「Neuroethics」でオンライン公開されました。
論文情報
- 題目: The Ethics of Human Brain Organoid Transplantation in Animals
- 著者: Masanori Kataoka1, Christopher Gyngell2,3,4, Julian Savulescu2,3,5,6, Tsutomu Sawai1,5,7*
1:広島大学大学院人間社会科学研究科
2:Biomedical Ethics Research Group, Murdoch Children’s Research Institute, Melbourne, Australia
3:Melbourne Law School, The University of Melbourne, Melbourne, Australia
4:Department of Paediatrics, The University of Melbourne, Melbourne, Australia
5:Centre for Biomedical Ethics, Yong Loo Lin School of Medicine, National University of Singapore
6:Faculty of Philosophy, The University of Oxford, Oxford, UK
7:京都大学高等研究院ヒト生物学高等研究拠点(WPI-ASHBi)
*:責任著者 - 雑誌: Neuroethics, 2023, 16(27), pp.1-15
- URL:https://link.springer.com/article/10.1007/s12152-023-09532-3
- DOI: 10.1007/s12152-023-09532-3
背景
過去10年の間にオルガノイド(体外で作られる立体的な組織)【注1】の研究分野が急速に進展しました。2013 年にヒトの脳組織、すなわち、脳オルガノイドが作られて以降、脳の発生を解明する基礎研究、脳関連疾患の原因を解明し、創薬・治療法の開発に活かす応用研究、さらに将来的な再生医療に向けた応用研究が進められています。しかし、これまでの脳オルガノイドは血液や栄養の供給不足により十分に成熟しないという課題がありました。そのため近年、この課題を克服するために、ヒト脳オルガノイドを動物(マウス、ラット、カニクイザル)の脳に移植する研究が行われ、2018年以降、多数の報告がなされています。
一方で、こうした研究に対しては根強い懸念があります。主たる懸念は、ヒト脳オルガノイドを動物に移植した結果、移植後の動物の認知能力が向上するのではないかというものです。ただし現在は、動物移植がこのような懸念を引き起こす可能性は低いと考えられ、動物移植が実施されています。このように従来の議論では、移植後の動物の問題に注目が集まり、ヒト脳オルガノイド研究に固有の問題、すなわち、ヒト脳オルガノイドそれ自体が「意識」を持つ可能性が動物移植にどのように関連するかを十分に考慮できていませんでした。そこで本研究では、将来的な生命倫理議論に備えて、ヒト脳オルガノイド研究に固有の問題にも注目した、短期的、また中長期的な論点の整理を試みました。
研究成果の内容
本研究では、上述のような従来の議論の課題を克服し、ヒト脳オルガノイドの動物移植が提起する倫理問題を包括的に分析するための枠組みを提示しました。この枠組みでは、ヒト脳オルガノイドの動物移植の一連の過程を細胞提供から移植を受けた動物の利用までの複数の段階に分けるとともに、それぞれの段階において、移植される脳オルガノイドに関連する課題と移植を受けた動物に関連する課題を分けました。これによって、ヒト脳オルガノイドを動物に移植するという一連の過程のどの段階で、どのような短期的、中長期的な倫理問題が生じうるのかを俯瞰的に整理することができます。それとともに、ヒト脳オルガノイドを移植することにどのような固有の問題があるのかを明らかにすることが可能になります。
例えば、細胞提供者から細胞を提供してもらう「細胞収集の段階」では、ドナーからの同意取得(インフォームド・コンセント)が必要になります。現在、ヒト脳オルガノイドの動物移植は、これまで作られていたヒト脳細胞の動物移植以上に固有の倫理問題はないと考えられており、包括同意【注2】を取得した細胞が利用されています。しかし、ヒト脳オルガノイドの動物移植研究には、ヒト脳オルガノイドを作ることの懸念と、ヒト脳オルガノイドを動物の脳に移植することの懸念という、二重の懸念が伴います。今後より成長した脳オルガノイドを体外で作ることができるようになれば、動物移植を行う研究者は、こうした二重の倫理的懸念を細胞提供者に丁寧に説明し、個別同意を取得する必要が出てくるでしょう。
また、ヒト脳オルガノイドを移植する「移植の段階」では、ヒト脳オルガノイドが意識を持つ場合と意識を持たない場合とで倫理問題が変化すると思われます。ヒト脳オルガノイドが意識を持つ場合、それを動物の脳に移植するだけの積極的な理由が必要になるでしょう。そして、もし移植することが認められたとしても、従来の議論で指摘されていたような認知能力が向上する可能性とともに、動物の意識とヒト脳オルガノイドの意識がどうなるのか(動物の意識に統合されるのか、両者の意識が共存するのかなど)について様々な倫理的懸念を生じさせます。また、仮に移植前のヒト脳オルガノイドが意識を持たなかったとしても、移植した結果として意識を持つようになる可能性も否定できません。これらはあくまで理論的な可能性ですが、意識の問題の解明が進んでいない以上、今後、より成熟した脳オルガノイドを移植する場合には特に、慎重な対応が求められるでしょう。
今後の展開
近い将来、ヒト脳オルガノイドが意識を持つ可能性が低いことを考慮すれば、当面の間はヒト脳オルガノイドの動物移植をその他の研究と比較して特別に懸念する理由はないかもしれません。しかし、本研究を通して、ヒト脳オルガノイドの動物移植には多様な課題が生じうることが明らかになりました。今後は、懸念される自体を回避するためにも、科学者や哲学・倫理学者をはじめ、多様な利害関係者とともに様々な課題に対処する必要があります。本研究グループは、生命倫理の観点からこうした課題にいち早く取り組み、より責任のある研究開発に向けた環境整備に貢献したいと思います。
用語説明
注1 オルガノイド
多能性幹細胞(体を構成するほぼ全ての細胞に分化できる幹細胞)を三次元培養して作られる組織。なお、多能性幹細胞には、受精卵(胚)から作られる胚性幹(embryonic stem: ES)細胞と血液や皮膚の細胞に複数の遺伝子を導入して作られる人工多能性幹(induced pluripotent stem: iPS)細胞がある。
注2 包括同意
細胞提供者から細胞を提供してもらう際、細胞を幅広い医学・科学研究に利用することに対して同意を取得すること
【お問い合わせ先】
大学院人間社会科学研究科 准教授 澤井 努