2024-02-13 東京大学,東北大学
発表のポイント
- 生きた線虫個体内でのモータータンパク質のキネシンとダイニンについて、極値統計解析により、既存手法ではわからなかった輸送速度の上限に相違があることを発見しました。
- 細胞に負荷をかけない蛍光イメージングと極値統計解析を組み合わせる本手法は、ナノバイオロジーのデータ解析に有用であることを示しました。
- 本手法を応用することで、アルツハイマー病や筋萎縮性側索硬化症(ALS)などモータータンパク質の変異に関連する神経変性疾患の分子メカニズムの解明への貢献が期待されます。
モータータンパク質「ダイニン」と「キネシン」の蛍光イメージング模式図(上)
および両タンパク質の輸送速度の極値統計解析結果(下)
発表概要
東京大学物性研究所の林久美子教授と東北大学大学院工学研究科の直井拓磨氏(研究当時、博士前期課程在籍。現在、修了)は、細胞内の物資輸送を担うモータータンパク質であるキネシンとダイニンにおける力学性質の違いを示しました。
これまで細胞力学的性質の計測では、光ピンセットという細胞に対し負荷の大きい手法を用いていましたが、負荷に敏感な特性に対しては、自然界と比較し大きくデータが変容してしまいます。今回、生きた線虫個体に対し、細胞に負荷を加えない蛍光イメージング(注1)を用いて、自然界に近い環境で輸送速度を計測し、平均値からの外れ値に注目する極値統計解析を行いました。その結果、キネシンは輸送速度に上限があるが、ダイニンは速度の上限が存在しない別の力学性質を持っていることがわかりました。
細胞内の物流を担うモータータンパク質の変異は物流障害を引き起こし、ヒト疾患とも深く関連します。開発した極値統計学による解析を応用することで、モータータンパク質の輸送異常に関連するヒト神経疾患の分子メカニズム解明に役立つことが期待されます。
本成果は、英国科学雑誌『Communications Physics』の 2月13日付オンライン版に掲載されました。
発表内容
研究の背景
細胞内では、細胞中心の核付近で合成した物質を末端へ輸送するだけでなく、末端から取り入れた物質や不要な物質を中心に輸送する必要があり、双方向輸送が細胞機能にとって重要です。サイズの大きい真核細胞ではタンパク質製の道路である微小管を張り巡らし、微小管に沿って物質を能動的に輸送しています。この能動輸送を担うのがキネシンとダイニンと呼ばれるモータータンパク質です。これらのタンパク質はアデノシン三リン酸(ATP)の加水分解で得た化学エネルギーを力学運動に変換して動くナノサイズのモーターであり、細胞中心から末端へ向かう順行性輸送をキネシンが担当し、末端から中心に向かう逆行性輸送をダイニンが担当しています。これまでキネシンやダイニンの運動メカニズムや力学性質はガラスチャンバー内で行う1分子実験で調べられてきましたが、本来の環境である細胞内でこれらのタンパク質の機能を調べることが課題となっています。
一方で、生きている細胞内は細胞骨格やタンパク質が混み合う複雑な非平衡環境であり、このような非平衡環境では多くの物理法則が破綻するため、計測が困難です。また、細胞内での力学操作において頻繁に使用される光ピンセットは、力を正確に加えるのが難しく、強いレーザーを用いるため生きている細胞への負荷が大きい特徴があります。こうした要因から、細胞に対しダメージが少なく、非平衡環境においても計測、解析できる新たな手法が求められています。
極値統計学は、観測データから数学の定理に基づき最大値や最小値を推定する統計学です。防災や経済、スポーツ記録、ヒトの寿命推定などマクロな系のデータ解析に応用されてきました。身近なところでは、台風の最大風速、津波の高さなどを見積ることに利用されています。これまで極値統計学をナノバイオロジーの実験データ解析に応用する試みはあまり行われておらず、一般には平均値解析が行われています。本研究では、極値統計学をナノバイオロジーの実験データ解析に適用することで、これまでに計測できなかったタンパク質の性質が見えると期待されます。
研究内容
研究グループは、蛍光イメージングという細胞に負荷を加えない低侵襲な手法によりモータータンパク質の輸送の様子を観察し、運動の速度データを収集しました。得られたデータに対し、極値統計解析を行うことで細胞内でのモータータンパク質の力学特性を調べました。
生きている線虫の神経細胞内で、蛍光イメージングによりキネシンとダイニンの輸送の様子を観察し(図1)、それぞれの輸送速度データを収集しました。速度データの極値統計解析から、キネシンは速度に極限値が存在するワイブル型(注2)に分類されましたが、ダイニンの速度には極限値が存在せず、ワイブル型に分類されたキネシンとは異なる力学特性をもっていることがわかりました。
図1 生きている線虫の神経細胞内で、モータータンパク質の輸送速度を計測
次に、モータータンパク質の速度の負荷依存性(図2)に注目しました。物質が詰まった荷物を輸送するモータータンパク質は、混み合った細胞内で粘性による負荷を受けます。速度が負荷に対し鈍感だと速度-負荷関係は上に凸の関数になり、敏感だと下に凸の関数になります(図2)。モータータンパク質輸送モデルのシミュレーション結果から、下に凸の速度-負荷関係を用いると速度が収束せず、ワイブル型にならないことが分かりました。速度が負荷に敏感だと、稀に非常に大きい速度値を発生し、極値が存在しないデータの振る舞いを見せます。つまり、輸送速度の負荷依存性として、ワイブル型に分類されるキネシンは上に凸の関数、極値を持たないダイニンは下に凸の関数であると推測できます。平均値で見るとあまり区別がつかないキネシンとダイニンの速度データですが、平均値からの外れ値に注目する極値統計解析により、キネシンとダイニンが異なる力学特性を持っていると理解できました。
これまで、モータータンパク質の速度の負荷依存性は光ピンセットを用いたガラスチャンバー内の1分子実験で調べられてきた力学性質でした。今回、初めて生きている個体内での力学性質を明らかにし、これまでの解析では知り得なかった速度上限の違いを、極値統計解析によって初めて得ることができました。
図2 モータータンパク質の速度の負荷依存性(力学性質の一例)
今後の展望
これまでモータータンパク質の物理的性質はガラスチャンバー内の実験で明らかにされてきましたが、今回の手法を応用することで、モータータンパク質本来の環境である細胞内で物理的性質を明らかにすることが可能になります。細胞内の物流を担うモータータンパク質は変異することで、物流障害を引き起こし、さまざまなヒト疾患を引き起こします。特に、能動輸送が顕著に見られる神経細胞では、軸索(注3)は長いもので1 m ほどあり、物流障害から神経細胞死を引き起こすこともあります。アルツハイマー病や筋萎縮性側索硬化症(ALS)(注4)などの神経変性疾患では、モータータンパク質の変異による物流障害が指摘されているため、今回開発した極値統計学による解析手法を用いることで、モータータンパク質の変異に起因する神経疾患の分子メカニズムの解明への寄与が期待されます。
発表者
東京大学物性研究所
林 久美子 教授 <研究当時:東北大学大学院工学研究科准教授>
東北大学大学院工学研究科
直井 拓磨 <研究当時:博士前期課程在籍。現在:修了>
論文情報
〈雑誌〉 Communications Physics
〈題名〉 Extreme-Value Analysis of Intracellular Cargo Transport by Motor Proteins
〈著者〉 Takuma Naoi, Yuki Kagawa, Kimiko Nagino, Shinsuke Niwa, Kumiko Hayashi*
〈DOI〉 10.1038/s42005-024-01538-4
研究助成
本研究は、JSTさきがけ「計測技術と高度情報処理の融合によるインテリジェント計測・解析手法の開発と応用」(課題番号:JPMJPR1877)、科研費挑戦的研究(萌芽)(課題番号:22K18679)の支援により実施されました。
用語解説
- (注1)蛍光イメージング:
- 観察対象に蛍光物質を付け、蛍光物質を光らせることで対象を観察する顕微鏡観察法。タンパク質や分子で混み合った細胞内で、観察対象のみを観察することに適している。
- (注2)ワイブル型:
- 極値分布はワイブル型、フレシェ型、グンベル型の3タイプの形状があり、極値が存在する分布をワイブル型と言う。
- (注3)軸索:
- 神経細胞から伸びる長い突起。神経細胞のシグナルを他の細胞へ伝える働きをもつ。
- (注4)筋萎縮性側索硬化症(ALS):
- 神経変性疾患の一つで、筋肉を動かし運動をつかさどる神経の障害。難病に指定されている。