2024-09-30 理化学研究所
理化学研究所(理研)脳神経科学研究センター 意思決定回路動態研究チーム(研究当時)のイスラム・タンビル テクニカルスタッフⅠ(研究当時、現 生体物質分析支援ユニット テクニカルスタッフⅠ)と岡本 仁 チームリーダー(研究当時、現 理研名誉研究員、知覚運動統合機構研究チーム 客員主管研究員)らの研究チームは、新たに開発した仮想現実空間(Virtual Reality、VR)システムを用いて、ゼブラフィッシュ[1]成魚に空間学習[2]の能力があることを証明しました。
本研究成果は、ゼブラフィッシュ成魚の計画・意思決定、ナビゲーション、社会行動に関する研究の進展に貢献することが期待されます。
今回、研究チームは「仮想モリス水迷路試験(Virtual Morris Water Maze、VMWM)」と呼ばれるVRベースのモリス水迷路試験(Morris Water Maze、MWM)[3]を新たに開発し、ゼブラフィッシュの空間学習能力を調べることに成功しました。その結果、ゼブラフィッシュはMWMの学習に必要な空間学習能力を有しており、重要な場所を認識して記憶できることが明らかになりました。
この研究は、オンライン科学誌『Cell Reports Methods』(9月23日付)に掲載されました。
実空間での従来のモリス水迷路試験とVR空間での仮想モリス水迷路試験
背景
動物が餌や繁殖相手を探したり、巣の位置を記憶して再び訪れたりする場所の記憶と目的地にたどり着く行動には、特定の脳領域の神経活動が必要です。マウスやラットを用いたMWMを使った研究では、ある特定の空間にいるときにだけに興奮する場所細胞が脳の海馬に存在することが分かっています。しかし、場所細胞が学習によって形成される仕組みはいまだに解明されていません。
岡本チームリーダーらは、頭部を固定したゼブラフィッシュにVRを見せて、光学イメージングでリアルタイムにゼブラフィッシュの脳の神経活動を観察するVR実験装置を開発してきました注)。それらの装置では、ゼブラフィッシュの尻尾の動きを計測し、この計測に応じて投影されるVRの景色を動かすことによって、ゼブラフィッシュが一カ所にとどまっているにもかかわらず、あたかも2次元のVR内で泳いでいるように感じさせることができます。
研究チームはVR実験装置を使って、ゼブラフィッシュがVRの中で、周囲の景色を参考にして、隠れた安全地帯がどこにあるのかを記憶し、その場所に正確にたどり着ける空間認知能力を有しているかどうかの実証に挑みました。
注)2021年9月29日プレスリリース「最適な未来予想の実現化をモニターする神経細胞の発見」
研究手法と成果
研究チームが開発した仮想モリス水迷路試験(Virtual Morris Water Maze、VMWM)のVR実験装置では、野生型のゼブラフィッシュ成魚の尻尾を自由に動かせるように、頭部を水槽内で固定します(図1A)。水槽の周りの四方はVRを投影する画面で囲まれています。上方から、LEDにより魚体を照らし、照らされた尻尾の動きをカメラで撮影します。撮影した動画から尻尾の動きを計測し、この計測結果に基づいて前方への直進運動と回転運動成分を計算して、水槽周りの画面に投影されるVRを動かします。水槽には、魚体に定期的に電気ショックを与える電気ショック装置が備えられています。魚体はVR内の「安全地帯」にいるときにだけ、電気ショックが与えられなくなります(図1B)。
VR実験装置内のゼブラフィッシュは、尻尾の動きに連動して動くVRを見ることで、一カ所にとどまっているにもかかわらず、VR内を泳ぎ回る感覚を得ます。ゼブラフィッシュは、電気ショックが与えられる環境から逃れるために、脳の空間認知機能を使って「安全地帯」を探します(図1C)。
この実験に使われたゼブラフィッシュは、電気ショックを与えない「コントロール群」、定期的に電気ショックを与える「トレーニング群」の二つのグループに分けました。トレーニング群は、トレーニングを重ねるにつれて成功率[4]が上昇し、最終的にはコントロール群よりも統計的に高い成功率に達するゼブラフィッシュが現れて「学習群」としました。トレーニング群の成功率はコントロール群の成功率よりも高く(図1D)、学習群の成功率は日数がたつにつれて上昇しました(図1E)。
図1 頭部固定のゼブラフィッシュを用いたVRシステムの概要とその学習結果
A)固定器具により頭部を固定したゼブラフィッシュ。B)仮想モリス水迷路試験(VMWM)のVR実験装置。特殊なLEDで照らされたゼブラフィッシュの尻尾の動きをカメラで撮影し、コンピュータ上でリアルタイム解析を行う。C)実際に作成したVMWMのVR空間。円形の空間の中に、壁の外に見える多色の柱を目印に、隠れた安全ゾーンを求めてゼブラフィッシュが遊泳する。D)コントロール群(黒)とトレーニング群(青)の日ごとの平均成功率の比較。★は有意差を表す。3日目はトレーニング群の分散が大きく有意差が付かなかった。E)学習群の日ごとの平均成功率の比較。
以上の結果から、ゼブラフィッシュ成魚は、安全地帯のような特定の場所を認知・記憶することでVMWM課題を学習できることが示され、空間学習能力があることが実証されました。
今後の期待
本研究では、VMWMのVR実験装置を新たに開発するとともに、ゼブラフィッシュ成魚はVMWMの学習に必要な空間学習能力を有していることを明らかにしました。本研究成果は、ゼブラフィッシュ成魚の計画・意思決定、ナビゲーション、社会行動に関する研究の進展に貢献すると期待されます。
また、本研究で開発したVR実験装置と光学イメージング(例えば、2光子レーザー顕微鏡[5])を組み合わせて、ゼブラフィッシュの頭部を固定しながら、泳いでいると勘違いしているゼブラフィッシュの脳の場所細胞の神経活動をリアルタイムに記録して、脳の個々の細胞が特定の条件下でどのように機能しているかを調べることが可能となりました(in vivo[6])。今後この技術を活用して、ゼブラフィッシュ成魚の空間学習機能の仕組みの解明に挑戦していきます。
さらに、魚と哺乳類の脳は、脳の基本的な構造や機能でかなり共通しています。ゼブラフィッシュの空間学習能力を解明できれば、哺乳類の場所細胞が形成される仕組みの解明にも貢献すると期待されます。
補足説明
1.ゼブラフィッシュ
インド原産の硬骨魚類に属する小型淡水熱帯魚。飼育が簡単で、一度に200個程度の卵を産み、2~3カ月で生殖可能な成魚に成長する。受精卵に特定の遺伝子やDNA断片を微量注入することで遺伝子改変が容易にできる。受精後2日半で発生を完了し、胚や幼魚は透明なため、動物の器官形成の仕組みを知るためのモデル実験動物としてこれまで広く世界で使用されてきた。また、哺乳類と脳の構造が似ている一方で、脳がはるかに小さいため、脳全体の神経活動を一挙に観察可能であり、脳の神経活動の解析に適している。成魚を使った脳による行動制御の仕組みの研究は、理研脳神経科学研究センター 意思決定回路動態研究チーム(研究当時)の岡本チームリーダー(研究当時、現 知覚運動統合機構研究チーム 客員主管研究員)が世界のパイオニアである。
2.空間学習
動物が周囲の空間の中で、生存に重要な場所を認識して記憶する学習プロセス。生存に重要な場所とは、巣や餌の豊富な場所、安全な場所などがある。
3.モリス水迷路試験(Morris Water Maze、MWM)
空間学習能力の代表的な評価方法の一つ。マウスは周囲の風景を記憶し、それを頼りにゴール(プラットフォーム)を探して水を張ったプール内を泳ぎ回る。記憶学習能力が正常なマウスは、このトライアルを繰り返すとゴールに到着するまでの時間がだんだん短くなるが、記憶学習能力に障害のあるマウスは、周囲の風景とゴールの場所との相対的位置関係を記憶できずに、このトライアルを数回繰り返してもなかなかゴールできない。
4.成功率
毎日の実験において、成功した試行回数をその日の試行回数で割った値。正解率ともいう。
5.2光子レーザー顕微鏡
レーザー走査型蛍光顕微鏡の一種。赤外線超短パルスレーザーを顕微鏡の対物レンズを介して標本に入射して焦点付近の蛍光色素のみを励起し、標本から放出された蛍光を検出する。焦点の位置を標本の2次元平面や3次元空間の中でスキャンすることによって、コンピュータで標本の各部分の蛍光強度の分布を2次元または3次元の画像として構築することができる。波長の長い赤外線を用いるため組織透過性に優れており、比較的深い領域の神経細胞の活動も捉えることができる。
6.in vivo
in vivo(イン・ビボ)とは、”生体内で(の)”という意味で、マウスやゼブラフィッシュなどの実験動物を用い、生体内に直接被験物質を投与し、生体内や細胞内での薬物の反応を検出する試験のことを指す。例えば、細胞内での反応などが、in vivoに当てはまる。また、動物が生きている状態で何か行動を起こしているときに、脳細胞の活動を計測するような実験もin vivoであるといえる。
研究チーム
理化学研究所 脳神経科学研究センター
意思決定回路動態研究チーム(研究当時)
チームリーダー(研究当時)岡本 仁(オカモト・ヒトシ)
(現 理研名誉研究員、知覚運動統合機構研究チーム 客員主管研究員、早稲田大学 研究院客員教授、理工学術院 客員上級研究員)
テクニカルスタッフⅠ(研究当時)イスラム・タンビル(Tanvir Islam)
(現 生体物質分析支援ユニット テクニカルスタッフⅠ)
研究員(研究当時)鳥越 万紀夫(トリゴエ・マキオ)
研究員(研究当時)谷本 悠生(タニモト・ユウキ)
研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費助成事業基盤研究(A)「手綱核・脚間核経路による社会・認知行動のスイッチング制御機構の解明(研究代表者:岡本仁、21H04814)」、同学術変革領域研究(A)「能動的推論に基づく意思決定の神経回路機構の解明(研究代表者:岡本仁、22H05520)」「階層的脳部位間の予測と予測誤差信号の伝達に基づく意思決定行動の制御機構(研究代表者:岡本仁、23H04976)」、また研究の一部は理研CBS-花王連携センターの助成を受けて行われました。
原論文情報
Tanvir Islam, Makio Torigoe, Yuki Tanimoto and Hitoshi Okamoto., “Adult zebrafish can learn Morris Water Maze-like tasks in a two-dimensional virtual reality system”, Cell Reports Methods, 10.1016/j.crmeth.2024.100863
発表者
理化学研究所
脳神経科学研究センター 意思決定回路動態研究チーム(研究当時)
テクニカルスタッフⅠ(研究当時)イスラム・タンビル(Tanvir Islam)
(現 生体物質分析支援ユニット テクニカルスタッフⅠ)
チームリーダー(研究当時)岡本 仁(オカモト・ヒトシ)
(現 理研名誉研究員、知覚運動統合機構研究チーム 客員主管研究員)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当