2025-02-14 東京大学物性研究所,理化学研究所,高輝度光科学研究センター
発表のポイント
- 新たに開発した軟X線分光顕微鏡により、細胞内微細構造の化学状態の違いを元素特異的に可視化することに成功しました。
- 独自開発の軟X線用ミラーと高輝度軟X線を組み合わせ、窒素・酸素などの軟X線吸収スペクトルを高い空間分解能で調べることが可能になりました。
- 単純な顕微鏡像からは識別困難なさまざまな未知の微細構造も捉えられており、今後、生命科学や創薬研究などで新たな可能性を切り開くと期待されます。
新たに開発した軟X線分光顕微鏡(左)と細胞の窒素・酸素の化学状態イメージング結果(右)。
概要
東京大学物性研究所の櫻井快博士課程学生(同大学大学院工学系研究科物理工学専攻)、木村隆志准教授と竹尾陽子助教、井上圭一准教授と寳本俊輝特任研究員、吉見一慶特任研究員、原田慈久教授、理化学研究所放射光科学研究センターの志村まり研究員、高輝度光科学研究センターの大橋治彦室長らによる研究グループは、化学状態の違いをもとに細胞内の微細構造を高分解能に観察できる、新たな元素イメージング技術を開発しました。
大型放射光施設SPring-8(注1)から発振される高輝度軟X線に、独自開発の軟X線用ミラーであるウォルターミラー(注2)を組み合わせ、さまざまな元素の軟X線吸収スペクトルの高空間計測を可能にしました(図1)。また、細胞内部に存在する窒素や酸素の化学状態を観察し、多彩な微細構造を捉えられることを示しました。
高空間分解能かつラベルフリーで、タンパク質や核酸、脂質、糖質といった生体分子に含まれる化学結合の種類や価数の違いを元素選択的に捉えられるため、単純な顕微鏡像からは識別困難な未知の微細構造も捉えられます。蛍光タンパクなどの標識が困難な低分子のイメージングなどを通して、細胞機能の解明や疾患研究への新たなアプローチとして期待されます。
本成果は米科学誌「Applied Physics Letters」に1月31日(現地時間)掲載されました。
図1:開発した軟X線による化学状態イメージング手法の概要。軟X線の波長を細かく変化させながら、窒素の吸収端(波長3.14 nm 〜 2.92 nm)と酸素の吸収端(2.38 nm 〜 2.18 nm)にわたって、計209枚の細胞像を計測しました(上段)。計測した細胞像を精密に並べることで、細胞の高分解能軟X線吸収スペクトルを取得できます(中段)。軟X線吸収スペクトルは各位置における各元素の結合状態の違いを反映しており、形状を分類することで細胞の化学状態の違いを分類することが出来ます。
発表内容
研究の背景
高い分解能とさまざまな物性分析技術を持つX線によるイメージングは、生物学や材料科学など幅広い領域において応用が行われています。可視光と比較して2~3桁程度短い波長を持つ軟X線は、物質に含まれる電子の状態を調べるのに特に適しており、例えば軟X線吸収スペクトル(注3)を計測することで、材料やデバイス、細胞に含まれる微細構造だけでなく、原子の結合や価数といった化学状態を元素選択的に詳細に把握できます。
一方で、軟X線はその極端に短い波長のため、可視光と同じようなレンズを用いた顕微鏡を構築することができません。加えて、従来のゾーンプレート(注4)と呼ばれる微細パターンを利用した光学素子で構築した軟X線顕微鏡では色収差(注5)が大きく、試料の吸収スペクトルを高精度に計測する上でさまざまな困難が伴っていました。
研究内容
研究グループは、独自開発のウォルターミラーと呼ばれる超高精度ミラーを導入した新たな軟X線顕微鏡を用いて、軟X線吸収スペクトルを高空間分解能・高感度に計測可能な、新たな元素・化学状態イメージング技術の開発に成功しました。軟X線の全反射現象を利用するウォルターミラーには色収差が原理的に存在しないため、さまざまな元素の軟X線吸収スペクトルをシームレスに取得することができ、計測時の精度が飛躍的に向上しました。
実験は大型放射光施設SPring-8(BL07LSU)の高輝度軟X線を利用して実施し、タイコグラフィ(注6)と呼ばれる計算機を用いたイメージング手法により行われました。窒素・酸素の化学状態を反映する軟X線の波長領域で、ND7/23と呼ばれるげっ歯類神経芽細胞を200枚以上にわたって計測しました。トヨタ自動車株式会社の開発した材料解析クラウドサービスWAVEBASE(注7)を利用し、取得した吸収スペクトルを確率論的主成分分析により解析したところ、細胞内部の構造に起因した窒素・酸素の結合や価数などの化学状態の違いを50 nmの高空間分解能でマッピングすることに成功しました(図2)。
図2:単一波長で計測した細胞の軟X線顕微鏡像(左)と軟X線吸収スペクトルの形状に基づき窒素(中)・酸素(右)の化学状態をマッピングした結果。画像中の赤・青は、下段に示す軟X線吸収スペクトル形状の違いを示している。単純な顕微鏡像からは識別困難な、さまざまな構造が可視化出来ていることが分かる。
今後の展望
今回開発したイメージング技術では、単純な顕微鏡像からは判別困難な未知の微細構造も捉えられており、ラベル処理なしで高空間分解能に細胞内部の元素・化学状態を可視化できるため、従来のバイオイメージングとは異なる視点を細胞生物学にもたらします。
研究グループでは生細胞を軟X線で計測する技術の開発にも成功しており、今後、生細胞が示す動的な化学変化を捉えることも視野に入れています。こうした技術開発により、細胞内の「化学地図」をより正確かつ詳細に描き出すことで、生命科学や創薬分野において新たな領域を切り開くことが期待されます。
関連情報
- 「高精度ミラーと計算を組み合わせた軟X線顕微鏡を開発 ―ラベルフリーで細胞内の微細構造を50 nmの分解能で可視化―」(2022/07/12)
- 「100兆分の1秒の一瞬で生きた細胞の姿を捉えることに成功 ―X線自由電子レーザーを利用した新たな軟X線顕微鏡を開発―」(2024/05/24)
発表者・研究者等情報
東京大学
物性研究所
櫻井 快 博士課程学生(東京大学大学院工学系研究科物理工学専攻)
兼:高輝度光科学研究センター研究生
木村 隆志 准教授
兼:理化学研究所 放射光科学研究センター 客員研究員
竹尾 陽子 助教
兼:理化学研究所 放射光科学研究センター 客員研究員
井上 圭一 准教授
兼:理化学研究所 放射光科学研究センター 客員研究員
寳本 俊輝 特任研究員(当時)
兼:理化学研究所 放射光科学研究センター 客員研究員
吉見 一慶 特任研究員(PI)
原田 慈久 教授
理化学研究所 放射光科学研究センター 生体機構研究グループ
志村 まり 研究員
兼:国立国際医療研究センター 研究員
高輝度光科学研究センター ビームライン光学技術推進室
大橋 治彦 室長
兼:理研放射光科学研究センター 客員研究員
論文情報
雑誌名 : Applied Physics Letters
題名 : Chemical-state imaging of a mammalian cell through multi-elemental soft x-ray spectro-ptychograp
著者名 : Kai Sakurai*, Yoko Takeo, Shunki Takaramoto, Noboru Furuya, Kyota Yoshinaga, Takenori Shimamura, Jordan T. O’Neal, Yu Nakata, Satoru Egawa, Kazuyoshi Yoshimi, Haruhiko Ohashi, Hidekazu Mimura, Yoshihisa Harada, Keiichi Inoue, Mari Shimura, and Takashi Kimura* (*責任著者)
DOI:10.1063/5.0237804
研究助成
本研究は、JSPS科研費(20H04451、21K20394、23H01833、23KF0019)、JSTさきがけ(JPMJPR1772)、JST CREST(JPMJCR2235)、村田学術振興・教育財団、精密測定技術振興財団、東京大学卓越研究員制度、文部科学省「マテリアル先端リサーチインフラ」事業(JPMXP1223UT1093)の支援により実施されました。
用語解説
- (注1)大型放射光施設SPring-8:
- 理化学研究所が所有する、兵庫県の播磨科学公園都市にある世界最高性能の放射光を生み出す大型放射光施設で、利用者支援等は高輝度光科学研究センターが行っている。SPring-8の名前はSuper Photon ring-8 GeVの略。放射光を用いてナノテクノロジー、バイオテクノロジーや産業利用まで幅広い研究が行われている。
- (注2)ウォルターミラー:
- レンズのように光を集光するためのミラーの一種で、収差を抑えるために楕円面と双曲面を組み合わせた非球面形状をしている。X線領域で使用するためには、可視光領域のミラーと比較して格段に高い加工精度が要求される。
- (注3)軟X線吸収スペクトル:
- 軟X線が物質を透過した際に得られる、波長に応じた吸収率の分布。元素ごとに吸収される軟X線の波長が異なるとともに、原子の結合や価数に応じて敏感に変化するため、軟X線吸収スペクトルの形状を調べることで元素特異的に物質の化学状態を把握できる。
- (注4)ゾーンプレート:
- 同心円状の微細パターンを利用して集光を行う光学素子。比較的容易に精度の高い集光が行えるため、軟X線領域では顕微鏡応用も含めて広く利用されている。反面、X線の回折現象を利用するため、波長に応じた色収差が存在するという課題も存在する。
- (注5)色収差:
- レンズなどで光を集光する際に、波長(≒色)に応じてズレが生じる現象。鏡面反射を利用するミラー光学系を用いることで、原理的に色収差を生じない理想的な顕微鏡を構築することができる。
- (注6)タイコグラフィ:
- 近年研究がめざましく進展している新しいイメージング技術で、レーザーのような干渉性の高い光を試料に当てた時に得られる回折パターンを計算機により解析することで、高い分解能と感度を実現できる。
- (注7)材料解析クラウドサービスWAVEBASE:
- トヨタ自動車株式会社の開発した、材料計測データのためのオンラインデータ解析サービス。多種多様な素材を高いレベルで要する自動車開発の中で培ったマテリアルズ・インフォマティクスを使った分析により、限られた少量のデータの中から有用な情報を抽出することが可能。