細胞を常温乾燥保存する技術の開発へ
2021-02-03 農研機構
ポイント
農研機構は、理化学研究所などと協力して、干からびても死なない生き物であるネムリユスリカ1)が、乾燥・再水和(再び水に浸される)過程で蓄積する物質を同定し、その役割を解明しました。本成果で得られた物質を利用する事で、細胞の常温乾燥保存技術開発の扉を開くと期待されます。
概要
一般に、生物は体内から脱水が起きると、最悪の場合は死に至ります。しかし、一部の生物は、完全に体内の水分が失われても死なないことが知られています。その現象は、乾燥無代謝休眠(anhydrobiosis)と呼ばれ、細胞や生き物そのものを常温乾燥保存する技術への応用が目指されてきました。
ネムリユスリカは、乾燥無代謝休眠能力をもつ珍しい昆虫で、カラカラに干からびても死なない生物として知られています。これまで、ネムリユスリカの乾燥耐性機構を理解するために様々な解析が進められてきましたが、どんな物質がネムリユスリカを干からびさせても死ななくさせているのか、その全貌は分かっていませんでした。
農研機構・理研・カザン大(ロシア)を中心とする研究グループは、ネムリユスリカ幼虫において、乾燥特異的に蓄積する物質を網羅的に調べました。その解析で得られた物質の役割を調べた結果、トレハロース2)が抗酸化活性の駆動源になっていることや、乾燥後に再び水に浸された時にすぐにエネルギー合成が出来るような仕組みがあること、老廃物を無毒化してから蓄積していることなどが明らかになりました。本研究成果で得られた物質を利用する事で、細胞や組織の常温乾燥保存技術開発の扉を開くと期待されます。
関連情報
予算:ロシア科学基金(RSF)と農林水産省の協力覚書に基づいた「国際共同研究パイロット事業(ロシアとの共同公募に基づく共同研究分野)」
問い合わせ先
研究推進責任者 :農研機構 生物機能利用研究部門 研究部門長 吉永 優
研究担当者 :同 新産業開拓研究領域 上級研究員 コルネット・リシャー
同 新産業開拓研究領域 主席研究員 黄川田 隆洋
広報担当者 :農研機構本部広報部広報課 後藤 洋子
詳細情報
開発の社会的背景
細胞や組織を長期保存するためには、当然のごとく、冷凍・冷蔵技術を利用しています。20世紀半ばに確立されたこの技術は、生物素材を生きたまま保存する技術の決定版と考えられていますが、永続的に電源供給しなければいけない点は、コスト面やメンテナンスの煩雑さの面で問題であるといえます。特に、天災などにより電源供給が絶たれる状況になると、貴重な生物素材を一気に失う危険をはらむ保存方法であるといえます。
20世紀末になると、冷凍・冷蔵に頼らない生物素材の保存技術として、乾燥を利用することが模索され始めました。アメリカを中心に細胞の常温乾燥保存技術の構築が試みられてきましたが、細胞や組織を長期乾燥保存する技術の実現には至っていません。
研究の経緯
ネムリユスリカの幼虫は、カラカラに干からびても死に至らず、再び水に浸すだけで蘇生するという特殊な能力を持つ昆虫です。農研機構では、この昆虫が持つ干からびても死なない能力の仕組みを調べてきました。これまでに、ゲノムの概要配列を明らかにし、乾燥耐性に関連している遺伝子を特定してきました。その過程で、乾燥ネムリユスリカ幼虫の体内に、乾燥保護物質としてトレハロースやLate Embryogenesis Abundant (LEA)タンパク質3)などが著しく多く蓄積していることを明らかにしています。これらの物質を用いて、細胞を乾燥保存する方法の確立を進めてきましたが、ネムリユスリカの乾燥耐性を再現することは出来ませんでした。この事実は、乾燥保護物質として、まだ未解明なものが乾燥幼虫内に存在することを暗示するものでした。
研究の内容・意義
ネムリユスリカの乾燥耐性を実現させている物質を同定する目的で、メタボローム解析4)と呼ばれる網羅的な代謝産物同定技術を用いて、ネムリユスリカの乾燥幼虫体内に蓄積している物質を調べました。今回のメタボローム解析により、ネムリユスリカの乾燥耐性に関与する重要な代謝産物の変動が明らかになりました(図1)。今回の解析で新たに分かったことを、以下に要点を絞って示します:
図1. 乾燥・再水和する過程で、ネムリユスリカは代謝を切り替え、苛烈な乾燥ストレスから身を守る物質を合成しています。本成果で新たに発見された事実を、マゼンタ色で示しました。
<乾燥過程>
- トレハロースを蓄積し、細胞膜やタンパク質を安定化します。
- 乾燥過程で生み出される老廃物を、キサンツレン酸5)やアラントイン6)のような生体に毒性がない物質として蓄積し、生体に害が及ばないようにします。
- クエン酸7)とAMP8)を蓄積します。
<再水和過程>
- 蓄積したクエン酸とAMPを利用し、再水和時に必要なエネルギーを得るための急速なATP(用語解説7参照)合成を実現します。
- 蓄積したトレハロースをグルコースに分解します。蘇生した幼虫のエネルギー源として利用すると同時に、ペントースリン酸経路9)を活性化させることで、幼虫の効果的な回復をサポートする抗酸化活性の駆動源となります(ここでいう「抗酸化活性」とは、再水和過程で増加する活性酸素の除去への貢献のことを指します)。
今後の予定・期待
メタボローム解析で明らかになった物質を利用することで、細胞や組織の乾燥耐性を向上させる方法の開発への道が開かれました。今後は、乾燥特異的に蓄積していた物質を、細胞に導入する技術や、代謝経路をゲノム編集で調節することで、細胞や組織の常温乾燥保存技術の構築を目指していきます。本研究の成果は、エネルギーフリーな生物素材の保存系の構築に貢献すると期待されます。
用語の解説
- 1)ネムリユスリカ
カラカラに干からびても死なず、もう一度水に浸すと復活して、成長を再開する驚異の昆虫。
2)トレハロース
ブドウ糖が2分子結合したできた糖の一種。ガラス化することで、細胞の乾燥保護に寄与することが知られています。
3)LEAタンパク質
乾燥耐性を持つ動植物に広く存在するタンパク質。乾燥や熱でタンパク質が凝集することを防ぐ機能をもちます。
4)メタボローム解析
組織や細胞に蓄積している代謝産物を網羅的に同定する解析法。
5)キサンツレン酸
アミノ酸の一種であるトリプトファンの代謝産物の1つ。他の代謝産物より毒性が低いことが知られています。
6)アラントイン
核酸に由来するプリン体を分解する過程で生み出される代謝中間体。傷の回復を促進する効果がある事から、化粧品や衛生用品の添加剤として用いられています。
7)クエン酸
ミトコンドリア内で駆動するクエン酸回路の初発物質。クエン酸回路が動き出すとATPと呼ばれる生体エネルギー物質が合成されます。
8)AMP
ATPの原料。AMPに1分子のリン酸が結合するとADPに、2分子結合するとATPになります。
9)ペントースリン酸経路
ブドウ糖を分解する代謝経路である解糖系から分岐する代謝系。DNAやRNAの原料であるリボースや、抗酸化系の駆動力として利用されるNADPHを合成します。
発表論文
Ryabova, A., Cornette, R., Cherkasov, A., Watanabe, M., Okuda, T., Shagimardanova, E., et al. (2020). Combined metabolome and transcriptome analysis reveals key components of complete desiccation tolerance in an anhydrobiotic insect. Proc Natl Acad Sci U S A, 117(32), 19209-19220.
http://doi.org/10.1073/pnas.2003650117