2025-02-12 国立精神・神経医療研究センター,科学技術振興機構
国立研究開発法人国立精神・神経医療研究センター(NCNP)の高橋雄太室長、出井勇人特任研究室長、山下祐一室長、東京科学大学の小松三佐子特任准教授、沖縄科学技術大学院大学の谷淳教授、東北大学の富田博秋教授らの研究グループは、霊長類の脳活動をリアルタイムでシミュレーションし、覚醒状態をモニタリングする新たな「デジタルツイン脳シミュレーター」を開発しました。このシミュレーターは、脳の異なる階層における潜在的な脳活動(潜在状態)[1]をモデル化し、仮想的な皮質脳波(ECoG)[2]信号を高精度に予測生成します。さらに、予測と観測の誤差に基づいて、リアルタイムに潜在状態を推測し、予測を更新すること(データ同化技術)により、その時の脳の状態をリアルタイムに反映させたシミュレーションを実現しました。このモデルを活用することで、仮想的な投薬シミュレーションの実施や、ECoG信号の背景にある機能的ネットワークの推定も可能であることを示しました。個体ごとの脳の情報処理機序をリアルタイムに明らかにしようとする本研究は、今後の個別化医療への応用が期待されます。
本研究成果は、2025年2月10日に英国のオンライン総合学術雑誌「npj digital medicine」に掲載されました。
研究の背景
臓器デジタルツインは、ヒトの臓器の機能を数理モデルで表現し、実際の臓器の生体信号に基づいてリアルタイムでモデルを同期させることで、臓器の状態を正確に反映する技術です。近年、この技術は循環器疾患の治療や手術前シミュレーションなどで実用化が進んでいます。精神・神経疾患では疾患集団内の個人差が大きいため、臓器デジタルツインを用いた個別化治療による大きな貢献が期待されています。しかし、脳の複雑な構造と機能のため、脳のデジタルツインの開発はこれまで困難とされてきました。本研究では、この課題に取り組み、霊長類の脳活動をリアルタイムでモニタリングし、覚醒状態を正確にシミュレーションするための技術を開発しました。
研究の概要
本研究では、霊長類(マカクザル)のECoGデータを用いて、デジタルツイン脳シミュレーター(変分ベイズ回帰型神経回路モデル[3])を開発しました。このモデルは、脳の異なる階層における潜在的な脳活動(潜在状態)を表現し、各階層の潜在状態に基づいて、仮想ECoG信号を生成します。さらに、データ同化技術を用いることにより、生成された仮想ECoG信号と観測されたECoG信号の誤差に基づいてリアルタイムに潜在状態を推測して予測を更新することが可能であり、そのときの脳の状態を反映させた高精度のシミュレーションが可能となります(図1)。
【図1】デジタルツイン脳シミュレーターのシステム。データ同化は、潜在状態から仮想ECoGを生成するプロセスと、生成ECoG信号と観測ECoG信号の誤差から潜在状態を更新するプロセスによって成り立つ。
今回使用したECoGデータは、マカクザルの覚醒・麻酔状態において、広範な10の脳領域(前頭極、背外側前頭前野、前運動野、一次運動野、一次体性感覚野、頭頂間溝、前側頭皮質、聴覚野、高次視覚野、一次視覚野)に配置された20電極の情報を含んでいます。このECoGデータを用いてモデルを訓練すると、第3階層(全脳レベル)の潜在状態に覚醒と麻酔のクラスタが形成されることがわかりました。さらに、未知の個体のデータを使用してシミュレーションを実施すると、脳の潜在状態をリアルタイムに推定することを通して、覚醒状態の変化を認識することに成功しました(図2)。これに続き、麻酔時の潜在状態変化を仮想的に引き起こす仮想的薬物投与シミュレーションを実施し、生成されたECoG信号が麻酔や覚醒時の特徴を十分に表現していることを確認しました。最後に、モデル内での各脳領域への情報伝達量を調べることで、覚醒度の変化に重要な役割を果たしている機能的ネットワークを同定しました。これらのネットワークに仮想的に介入した場合に、生成されるECoG信号が麻酔状態や覚醒状態に変化する割合を調べることで、効率的に覚醒状態に介入できる機能的ネットワークを発見することに成功しました。
【図2】(A)観測されたECoGに対して、類似した波形のECoGの生成に成功していることが、予測誤差の低さからわかります。さらに、その時の潜在状態を観察すると、覚醒と麻酔時で大きく変化していることがわかります。(B)全脳レベルの潜在状態の変化(灰色)を観察することで、テスト個体における覚醒状態から麻酔状態への変化がわかります。
今後の展望
本研究でシミュレーターに用いた人工神経回路モデル(変分ベイズ回帰型神経回路モデル)は、柔軟な学習能力を持ちます。本研究では扱った脳波信号に限らず、他の脳活動信号(機能的脳MRIなど)、さらには、外受容感覚(視覚・聴覚など)、内受容感覚(心拍・呼吸感覚など)、固有感覚(関節位置や筋肉の感覚)などを統合的にモデル化できるという長所があります。これらの脳活動と感覚信号を統合的にモデル化することで、精神・神経疾患における情報処理の変調を包括的に再現する研究を進めています。この研究における、個体ごとの脳機能をリアルタイムに、データ駆動的にシミュレーションする技術は、精神・神経疾患における病態解明や個別化治療開発につながることが期待されます。
用語の説明
[1] 脳の異なる階層における潜在的な脳活動(潜在状態):観測される脳波信号の背景にある、潜在的な脳神経活動を潜在状態と呼びます。さらに、これまでの神経科学の知見により、脳における情報処理はいくつかの階層(レベル)間の連絡により実現していると考えられています。本研究では、3つの階層(全脳レベル、機能的ネットワークレベル、局所脳領域レベル)の潜在状態をもつ人工神経回路モデルにより、脳波生成の背景にある脳機能の再現に取り組みました。
[2] 皮質脳波(ECoG): 脳の表面に直接置かれた電極で、大脳皮質の電気的な活動を記録する方法です。従来の脳波検査と比較して、より細かい部分の活動や、より高い周波数の脳活動を高い精度でとらえることができます。
[3] 変分ベイズ回帰型神経回路モデル:脳波信号のように、確率的で時間発展するようなデータから、そのデータの特徴を抽出し、モデル内の潜在状態を推定することで、高い精度で未来のデータを予測する数理的なモデルです。
原著論文情報
・論文名:Digital Twin Brain Simulator for Real-Time Consciousness Monitoring and Virtual Intervention Using Primate Electrocorticogram Data
・著者:Yuta Takahashi, Hayato Idei, Misako Komatsu, Jun Tani, Hiroaki Tomita, Yuichi Yamashita
・掲載誌: npj digital medicine
・doi:10.1038/s41746-025-01444-1
・https://www.nature.com/articles/s41746-025-01444-1
研究経費
本研究は、科学技術振興機構(JST)戦略的創造研究推進事業 CREST(CYC-MS2023002、JPMJCR21P4)、日本学術振興会科学研究費助成事業(JP21K15723、P24K20897、JP22KJ3167、JP23H04978、 JP20H00625、JP24H00076、JP24K00499、JP24H02175)、科学技術振興機構(JST)ムーンショット型研究開発事業 ムーンショット目標1・目標3(JPMJMS2012、JPMJMS2031)、日本医療研究開発機構(AMED)(JP21tm0424601)、および国立精神・神経医療研究センター精神・神経疾患研究開発費(4-6、5-8、6-9)の支援を受けて行われました。
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沖代美保