最新技術が明かす類人猿の注意と生理的反応
2019-06-19 京都大学
佐藤侑太郎 野生動物研究センター・日本学術振興会特別研究員らの研究グループは、チンパンジーが怪我を負った個体に注意を向けること、また他者の怪我に対して生理的反応を示すことを明らかにしました。
ヒトでは他者の怪我や痛みに直面すると、あたかも自分も痛みを感じているかのような感覚を覚えることがあります。またこのような共感的反応にともなって心拍や体温などの生理状態が変化することが知られています。チンパンジーについては他の個体の怪我に関心をもつことが過去の観察から示唆されてきました。
本研究ではまず、怪我を負った個体の写真と怪我のない個体の写真を並べた画像ペアを見ているときのチンパンジーの視線を計測することによって、チンパンジーが怪我を負った個体の写真の方をより長く見ることがわかりました。さらに、チンパンジーが情動的反応を示すのかを検証するため赤外線サーモグラフィを用いてチンパンジーの皮膚温の変化を調べました。その結果、ヒト実験者の怪我を再現した場面でチンパンジーの鼻先の皮膚温が低下したことがわかりました。
本研究成果は、ヒトと進化的にもっとも近い動物であるチンパンジーが、他者の怪我に注意を向けることや情動的に反応することを示唆し、ヒトの共感能力がどのように進化してきたのかを理解するうえでも重要な発見です。
本研究成果は、2019年6月10日に、国際学術誌「Animal Cognition」のオンライン版に掲載されました。
図:赤外線サーモグラフィで撮影したチンパンジーの画像例。色の違いは温度の違いを表す。
書誌情報
【DOI】 https://doi.org/10.1007/s10071-019-01276-z
Yutaro Sato, Satoshi Hirata, Fumihiro Kano (2019). Spontaneous attention and psycho-physiological responses to others’ injury in chimpanzees. Animal Cognition.
詳しい研究内容について
他者の怪我に対しチンパンジーが情動的に反応することを発見
―最新技術が明かす類人猿の注意と生理的反応―
概要
京都大学野生動物研究センター 佐藤侑太郎 博士課程学生 日本学術振興会特別研究員を中心とする研究グ ループは、チンパンジーが怪我を負った個体に注意を向けること、他者の怪我に対して生理的反応を示すこと を明らかにしました。
ヒトでは他者の怪我や痛みに直面すると、あたかも自分も痛みを感じているかのような感覚を覚えることが あります。またこのような共感的反応にともなって心拍や体温などの生理状態が変化することが知られていま す。チンパンジーは他の個体の怪我に関心をもつことが過去の観察から示唆されてきました。本研究ではまず、 怪我を負った個体の写真と怪我のない個体の写真を並べた画像ペアを見ているときのチンパンジーの視線を 計測することによって、チンパンジーが怪我を負った個体の写真の方をより長く見ることがわかりました。さ らに本研究では、チンパンジーが情動的反応を示すのかを検証するため赤外線サーモグラフィを用いてチンパ ンジーの皮膚温の変化を調べました。実験の結果、ヒト実験者の怪我を再現した場面でチンパンジーの鼻先の 皮膚温が低下したことがわかりました。ヒトと進化的にもっとも近い動物であるチンパンジーが、他者の怪我 に注意を向けることや情動的に反応することを示唆するこれらの成果は、ヒトの共感能力がどのように進化し てきたのかを理解するうえでも重要な発見です。
本成果は、2019 年 6 月 10 日に国際学術誌「Animal Cognition」にオンライン掲載されました。
図 赤外線サーモグラフィで撮影したチンパンジーの画像例。色の違いは温度の違いを表す
1.背景
過去の観察から、チンパンジーが怪我をした個体を毛づくろいしたり、罠にかかった個体を手助けするかの ような行動がときどき報告されてきました。このような行動は一見すると他者への共感能力を示しているよう に見えます。しかし根底にある心のはたらきについてはほとんどわかっていません。ヒトでは他者の怪我や痛 みを目の当たりにするとあたかも自分も痛みを経験しているかのような感覚を覚えることが知られています。 一方、チンパンジーが他者の怪我に対して情動的に反応するのかはわかっていませんでした。
そこで本研究では、チンパンジーが怪我を負った個体に注意を向けるのか、また情動的に反応するのかを調 べました。情動的反応には心拍や呼吸、体温などといったさまざまな生理的変化が含まれます。本研究では特 に、皮膚の温度変化に注目しました。チンパンジーを含む霊長類において、強い情動的反応にともなって鼻先 の皮膚温が低下することが知られています。本研究では赤外線サーモグラフィを使ってチンパンジーの鼻先の 皮膚温を測定しました。赤外線サーモグラフィは、温度を測る対象物から放射される赤外線の波長に基づいて その表面温度を推定します。ここで重要なのは、測定対象にセンサーなどの器具を装着する必要がないことで す。本研究グループではこれまでも類人猿を対象とした認知実験に赤外線サーモグラフィを導入しており1 、 今回はこの手法を応用しました。
チンパンジーは他の個体とのケンカによって怪我を負うことがあります。しかしそのような自然に起こる場 面は実験的にコントロールすることができません。そこで、怪我を負ったチンパンジーの写真を使うことに加 え、ヒト実験者が怪我をする場面を演じることにしました。実験対象のチンパンジーは幼いころからヒトと交 流しており、ヒトの怪我に対しても理解を示すのではないかと考えました。怪我を負う場面をよりリアルに演 出するために、ハロウィンの仮装メイクや手品のトリックのようなさまざまな工夫を凝らしました。このよう な身近にあるものから得た着想と、赤外線サーモグラフィという最新技術を組み合わせることによって、チン パンジーの心のはたらきに迫りました。
2.研究手法・成果
京都大学熊本サンクチュアリで暮らすチンパンジー6個体を対象に実験をおこないました。最初の実験では、 怪我を負った個体と怪我のない個体の写真を並べた画像ペアを 8 種類用意してチンパンジーに見てもらいま した。視線計測装置を使ってチンパンジーの視線を計測すると、怪我を負った個体の写真の方をより長く見て いることがわかりました。
次に、ヒト実験者が怪我をする場面をチンパンジーの前で再現したときに、チンパンジーの鼻先の皮膚温が どのように変化するかを調べました。怪我をする場面に加え、怪我をしないコントロール場面での皮膚温も測 定し、この2つの場面で皮膚温の変化を比べました。まず、ヒトが手に切り傷を負う場面を再現しました。こ の実験では、舞台用ワックスやアイシャドウを用いたメイクによって傷を再現しました。これと似たような傷 はチンパンジーも経験したことがあるのではないかと考えています。怪我場面ではコントロール場面よりも鼻 先の皮膚温が大きく低下することがわかりました。この反応は6個体中 3 個体で特に顕著にみられました。
最後の実験では、ヒトが誤って親指に針を刺してしまう場面を再現しました。偽物の親指を使いましたが、 指先のない手袋をはめることであたかも本物の指のように見えるよう工夫しました。チンパンジーは針を使う機会がないので、チンパンジーにとっては見慣れない場面でしょう。ヒトでは似たような状況下で共感的な痛 みが生じることが知られています。本実験の結果、怪我場面とコントロール場面とで鼻先の皮膚温変化に大き な違いはみられませんでした。(末尾<参考写真>参照) これらの結果から、チンパンジーが他者の怪我に関心をもつこと、また情動的に反応することが示唆されま した。この情動的反応は、とくにチンパンジーにとってなじみのある場面で生じやすいようです。さらにこの 反応には個体によって違いがあることもわかりました。
1 ケンカの動画を見ているときのチンパンジーの情動状態を調べた研究。鼻先の皮膚温が低下することを明らかにした。 これは興奮や緊張といった情動状態を反映していると考えられる。Kano F, Hirata S, Deschner T, Behringer V, Call J (2016) Nasal temperature drop in response to a playback of conspecific fights in chimpanzees: a thermo-imaging study. Physiol Behav 155: 83–94. https://doi.org/10.1016/j.physbeh.2015.11.029
3.波及効果、今後の予定
ヒトの共感性がどのように進化してきたのかをめぐって活発な議論がなされています。ヒトと進化的にもっ とも近い動物であるチンパンジーの注意 生理的反応を明らかにした本研究は、この議論に一石を投じるもの になるでしょう。しかしこれらの反応がどの程度共感能力と関連しているのかについては今後さらに詳細に追 及する必要があると考えます。例えば共感的な反応は親しい相手に対して特に強く生じることが知られていま す。本研究で観察された反応にもこのような違いはあるのでしょうか。また生理的反応の個体差はそれぞれの チンパンジーのどのような個性を反映しているのでしょうか。今後の研究でさらに調べる予定です。
また本研究では、赤外線サーモグラフィによる非接触的な皮膚温測定によってチンパンジーの生理的反応を 調べることに成功しました。ヒト以外の動物は情動状態をことばで伝えてくれないため、生理的反応に注目し たアプローチは重要です。ところがセンサーなどの器具を身体に付けるのは、動物が嫌がることにくわえ、動 物の運動を制限する必要があるという点で実用が難しいです。しかし赤外線サーモグラフィを用いることでこ れらの制約を解決することができます。本研究は赤外線サーモグラフィを有効に活用するための情報を提供す ることで、今後の動物心理学研究を促進することが期待されます。
4.研究プロジェクトについて
この研究は以下の資金助成を受けておこなわれました。
●科学研究費補助金 若手研究 B (16K21108)
研究課題名:比較認知映画学-類人猿の意図理解と感情移入の動画と最新センサー技術を用いて調べる
研究代表者:狩野文浩
研究期間:2016-04-01 – 2019-03-31
●科学研究費補助金 新学術領域研究(研究領域提案型) (18H05072)
研究課題名:類人猿と鳥類のその場にない物事を抽象的に理解する能力の解明:意図理解 記憶 想像
研究代表者:狩野文浩
研究期間:2018-04-01 – 2020-03-31
●科学研究費補助金 基礎研究 A (26245069)
研究課題名:チンパンジーとボノボの道具的知性と社会的知性
研究代表者:平田聡
研究期間:2014-04-01 – 2019-03-31
●科学研究費補助金 新学術領域研究(研究領域提案型) (18H05524)
研究課題名:時間の獲得の個体発生と系統発生
研究代表者:平田聡
研究期間:2018-06-29 – 2023-03-31
●科学研究費補助金 特別推進研究 (16H06283)
研究課題名:言語と利他性の霊長類的基盤
研究代表者:松沢哲郎(京都大学高等研究院 特別教授)
研究期間:2016-04-26 – 2021-03-31
●京都大学リーディング大学院 霊長類学 ワイルドライフサイエンス リーディング大学院 ●Great Ape Information Network
<研究者のコメント>
本研究では、肉眼ではとらえきれないチンパンジーの反応を定量的に調べることができた点が興味深いと思 っています。しかし、これらの反応がどのような心のはたらきと関係しているのかは、今後の研究でさらに調 べる必要があります。チンパンジーとヒトは進化的に近い動物です。ヒトの共感能力といくらか関連している 可能性も考えられますが、ヒトのそれとは違うチンパンジーなりの心のはたらきがあるのかもしれません。
<論文タイトルと著者>
タイトル: “Spontaneous attention and psycho-physiological responses to others’ injury in chimpanzees” (参考訳:他者の怪我に対するチンパンジーの自発的注意と生理心理的反応)
著 者:佐藤侑太郎*、平田聡、狩野文浩*(*共同責任著者)
掲 載 誌: Animal Cognition DOI:10.1007/s10071-019-01276-z
<参考写真>