2021-05-06 農研機構,森林総研,中央大学
ポイント
農研機構らは、野生ニホンジカ(以下、シカ)の成熟が農作物を食べることで早まることを、シカの骨コラーゲンの窒素安定同位体1)の比率(δデルタ15N値2))の解析から明らかにしました。本成果は、シカの農地侵入防止対策や農作物を食害する個体の駆除が、現在のみならず将来の農業被害の抑制にも有用であることを示します。また、δ15N値はシカの農作物依存度の指標として有効だったことから、δ15N値を用いた農作物を食害する個体の特性解明および、シカ被害対策手法の開発への活用が期待できます。
概要
シカ類による農作物の食害は日本を含む世界各地で確認されており、シカの増加とともに農業被害が深刻になっています。農作物は栄養価が高く、シカにとって格好の食物ですが、農作物の採食がシカの成長や繁殖にどのような影響をもたらすかは不明でした。このことを明らかにすることは、地域に生息するシカ個体数の変動をより正確に予測し、効果的な被害対策手法を開発する上で重要です。
今回、農研機構をはじめとする研究グループは、野生ニホンジカの骨に含まれる骨コラーゲンのδ15N値が、シカの農作物依存度の指標として有用であることを示すとともに、農作物採食が4歳以下の若齢シカの成長(体サイズの増加)を促進し、その結果、妊娠率が上昇することを明らかにしました。このような農作物採食によるシカの「早熟化」は、シカの増加を促進している可能性が示唆されました。本研究成果は、アメリカ生態学会発行の科学雑誌Ecosphereで、4月23日に発表されました。
関連情報
予算 : 科研費若手研究(19K20492)
問い合わせ先
研究推進責任者 :
農研機構畜産研究部門 所長髙橋 清也
研究担当者 :
同 畜産研究部門 動物行動管理研究領域 研究員秦 彩夏
広報担当者 :
同 畜産研究部門 研究推進室粕谷 悦子
詳細情報
開発の社会的背景と研究の経緯
野生鳥獣による農作物の被害額は年間約158億円(2019年度)であり、その約34%はニホンジカによる被害で、その個体数の増加と分布拡大への対策が喫緊の課題となっています。野生鳥獣にとって、農作物は栄養価が高い上に農地で大量に採食することができる魅力的な食物といえますが、農作物を食べることが具体的にシカの身体にどのように影響するのかは不明でした。シカ類では一般的に、一定のサイズ以上に体が成長すると繁殖を開始することが知られています。そのため、農作物の採食が体のサイズや妊娠率にもたらす影響を知ることは、農地を含むその地域に生息するシカ個体数がどのように変化するかを明らかにする上で重要です。
そこで今回、シカによる農作物の被害が多く確認されている長野県および群馬県の調査地で捕獲されたメスの野生ニホンジカ152頭の標本と付随するデータを解析することで、農作物への依存がシカの体サイズ成長や妊娠率にもたらす影響を科学的に検証しました。シカのように10年以上の寿命を持つ動物の場合、栄養の蓄積が身体にもたらす影響は齢によって異なる可能性があるため、0歳、1-4歳、5歳以上の3グループに分けて農作物採食の影響を調べました。
研究の内容・意義
1.2017-2019年にシカが主に農地外で採食する植物と加害する農作物(牧草、野菜類)を収集し、窒素安定同位体比(δ15N値)を測定したところ、農作物は農地外の植物に比べて高いδ15N値を示すことがわかりました(図1)。続いて、2012-2019年の12月下旬から5月上旬の間に捕獲された野生シカの骨に含まれる骨コラーゲン(図2)のδ15N値を測定しました。動物の骨に含まれる骨コラーゲンは代謝速度が遅く、複数年の間に採食した食物の同位体比を反映することが知られています。骨コラーゲンのδ15N値が高いほどシカがより長期的に農作物に依存していたことを示す指標となります。
2.0歳および1-4歳のシカでは、骨コラーゲンのδ15N値が高い個体ほど、体が大きくなることが分かりました(図3)。0歳で妊娠していたシカは1頭のみで検討できませんでしたが、1-4歳のシカでは、体が大きい個体ほど妊娠率が高くなることが分かりました(図4)。長期的な農作物への採食依存は単年の妊娠率に直接は影響しないものの、体の成長を介して間接的に妊娠率に影響すると考えられます(図4)。これらの結果は、長期にわたる農作物の採食が、若齢シカの成長を早め、その結果妊娠率を上昇させることを示唆しています。
3.5歳以上のシカでは、骨コラーゲンのδ15N値と体の大きさの間には関係が見られませんでした(図3)。同様に妊娠率への影響も確認されませんでした。この結果は、農作物の採食がシカの身体にもたらす影響は4歳以下の若い個体のほうが大きいことを示しています。
4.農作物依存度が高いほど、4歳以下の若齢のシカの体が大きくなり、その結果妊娠率も高くなることが分かりました。こうした農作物採食によるシカの「早熟化」現象は、シカ個体数の増加を促進する可能性を示しています。
今後の予定・期待
本成果は、シカや、シカによる農業被害の増加を抑制するためには、シカの農地への侵入防止や農作物を食害する個体の駆除が重要であることを強く示しています。また、農作物依存度の指標としてδ15N値を活用することで、例えば農作物を食害する個体がどのような場所に生息しているかといった、農作物を食害する個体の特性を知ることができます。今後のこうした研究の発展は、農業被害を減らす上で効果的にシカを管理する方法の確立に役立つことが期待されます。
用語の解説
- 1)安定同位体
- 同じ原子番号でも質量数が異なる「同位体」のうち、放射壊変(放射線を出して安定した他の原子核に変わる)を起こさない安定的な元素(窒素の場合、14Nと15N)を指します。
- 2)δ15N値
- 生物を構成する窒素安定同位体の比率は、食べた物の窒素安定同位体の比率を反映することが知られており、食性や食物網の解析に近年盛んに用いられています。試料中に含まれる同位体の存在比率(15N/14N)を、標準物質(窒素の場合は大気中の窒素)の同位体の存在比率からのずれとして千分率で表したものがδ15N値です。
農作物の栽培に使用する肥料等のδ15N値は、自然の降水や土壌中の窒素源のδ15N値に比べて高いことから、農作物はその影響を受け、自然植生より高いδ15N値を示すことが多くなります。
発表論文
Hata A, Nakashita R, Anezaki T, Minami M, Fukue Y, Higuchi N, Uno H, Nakajima Y, Saeki M, Kozakai C, Takada MB (2021) Agricultural crop consumption induces precocious maturity in deer by improving physical and reproductive performance. Ecosphere https://doi.org/10.1002/ecs2.3464
参考図
図1 調査地でシカが採食する主な農作物および農地外の植物のδ15N値
農作物は農地外で採食する植物と比較してδ15N値が高いことが分かりました。色のついた箱は、データの中央値を中心に50%(上下25%ずつ)のデータが含まれる範囲を、箱内の線は中央値を、上下のバーはデータの最大値と最小値を示します。〇は外れ値を示します。
図2 (a)収集したシカ標本および(b)骨コラーゲン
本研究では、収集したシカ標本の鼻の中(鼻甲介)から取り出した骨片から骨コラーゲンを抽出し、δ15N値を測定しました。
図3 齢グループごとのシカの骨コラーゲンδ15N値と体サイズの関係
0歳および1-4歳のシカは、骨コラーゲンのδ15N値が高い個体ほど体サイズの指標である頭骨最大長が大きいことが分かりました(a, b)。一方、5歳以上のシカではこのような傾向は見られませんでした(c)。実線は体サイズの推定値を表します。
図4 1-4歳のシカにおける妊娠率と(a)骨コラーゲンδ15N値および(b)体サイズの関係
骨コラーゲンのδ15N値は単年の妊娠率に影響しませんが(a)、体が大きいほど単年の妊娠率が高くなることが分かりました(b)。これは、長期間の農作物依存は体の成長を介して間接的に妊娠率に影響することを示唆しています。実線は妊娠率の推定値を表します。