2018-06-27 理化学研究所
理化学研究所(理研)脳神経科学研究センター学習・記憶神経回路研究チームのジョシュア・ジョハンセンチームリーダー、レイ・ルオ研究員(研究当時)、植松朗研究員らの研究チーム※は、恐怖記憶の抑制には中脳ドーパミン[1]神経が重要な役割を果たすこと、そのうち内側側坐核[2]に投射するものが特に重要であることを発見しました。
本研究成果は、強い恐怖体験により発症する「心的外傷後ストレス障害(PTSD)[3]」の治療に用いられる「持続エクスポージャー療法[4]」の改善につながると期待できます。
持続エクスポージャー療法では、患者はトラウマを引き起こす刺激を与えられ、その刺激に徐々に慣れることで恐怖を乗り越えます。研究チームは、この過程におけるドーパミンの役割に着目し、ラットが持続エクスポージャー療法に類似した「消去学習」を行っている最中に、光遺伝学[5]を用いてドーパミン神経の活動を操作した結果、予測される電気ショックが来ないタイミングでのドーパミン神経の活動が恐怖記憶の消去に重要な役割を果たすことを発見しました。さらに、内側側坐核に投射するドーパミンが消去に重要であること、また内側前頭前野[6]におけるドーパミンは、消去を阻害することも分かりました。本成果は、ドーパミン神経が報酬の「予測誤差[7]」を計算しているという従来の知見に加え、嫌悪刺激の予測誤差にも関係していることを示す新たな知見です。
本研究は、英国のオンライン科学雑誌『Nature Communications』(6月27日)に掲載されます。
図 恐怖記憶の消去に重要なドーパミンの役割
※研究チーム
理化学研究所 脳神経科学研究センター
学習・記憶神経回路研究チーム
チームリーダー ジョシュア・ジョハンセン(Joshua P. Johansen)
研究員(研究当時) レイ・ルオ(Ray Luo)
(現パーソン美術大学)
研究員 植松 朗(うえまつ あきら)
研究員(研究当時) アダム・ワイトマイアー(Adam Weitemier)
(現東京大学グローバルコミュニケーション研究センター特任講師)
研究員(研究当時) ルカ・アクイリ(Luca Aquili)
(現シェフィールド・ハラム大学講師)
テクニカルスタッフⅠ ジェニー・コイヴマー(Jenny Koivumaa)
神経回路・行動生理学研究チーム
チームリーダー トーマス・マックヒュー(Thomas J. McHugh)
※研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金新学術領域研究(領域提案型)「多様性から明らかにする記憶ダイナミズムの共通原理(領域代表:齊藤実)」および同「マイクロエンドフェノタイプによる精神病態学の創出(マイクロ精神病態)(領域代表:喜田聡)」および花王株式会社の支援により行われました。
背景
恐怖体験を記憶することは、危険の予知などにつながるため、我々の生活に必要な要素です。一方、恐怖記憶が不要になると、「消去学習」という新たな学習により、記憶が上書きされ、恐怖記憶は弱まります。
恐怖体験が過剰に記憶され、心に傷を負ってしまう「心的外傷後ストレス障害(PTSD)」に対して、消去学習を利用した「持続エクスポージャー療法」が治療効果を示すことが知られています。この行動療法では、患者がトラウマを引き起こす刺激にさらされることによって、徐々に慣れや安心感が生み出され、患者は恐怖を乗り越えていきます。この恐怖を乗り越える過程にはさまざまな神経回路が関与していますが、研究チームはその中でもドーパミン神経に着目しました。
ドーパミン神経は中枢神経の主に腹側被蓋野(VTA)にあり、快の感情や学習に関係することが古くから知られています。また最近では、ドーパミン神経は報酬との「予測誤差」を計算していることが分かってきています。例えば、予期する報酬よりも予期しなかった報酬を受け取るときに、ドーパミン神経はより反応します。一方、予期していた報酬が来ないとき、もしくは嫌なことが起こるときには、ドーパミン神経の反応は下がります。しかし、予期する恐怖刺激が来なくなる消去学習の場合に、ドーパミン神経がどのように関与しているかは分かっていませんでした。
研究手法と成果
研究チームは、消去学習におけるドーパミン神経の役割を調べるため、光遺伝学を用いてドーパミン神経細胞の活動を操作し因果関係を調べました。
アーキロドプシン[8]は、緑色光照射によって神経活動を抑制させるイオンポンプ[8]です。ベクター(運び屋)[9]を用いて、ラットの腹側被蓋野ドーパミン神経にアーキロドプシンを発現させ、このラットが消去学習をしている最中に、緑色光を照射してドーパミン神経細胞の活動を抑制し、ドーパミン神経細胞が消去学習にどのように作用するかを調べました。
まず、恐怖を誘発しない音をラットに提示した後に、恐怖体験として軽い電気ショックを脚に与える訓練を行うと、ラットは音によって電気ショックの到来を予測することを学習し、音に対してすくみ反応[10]という恐怖反応を示すようになります。これを「恐怖条件づけ学習」といいます。その後、音のみを繰り返し提示すると、音に対するすくみ反応は徐々に減少していきます。これを「消去学習」といいます(図1)。
次に、消去学習中の音が鳴っている間、もしくは音の後(恐怖条件づけのときに電気ショックが来ていた時間)に、ドーパミン神経の活動を抑制しました。その結果、後者の場合には消去学習が弱まる(起こりづらくなる)ことが分かりました。これは、電気ショックが来なかったことによるドーパミン神経活動が消去学習に関与していること、つまり嫌な刺激の予測誤差に関係していることを示しています(図2)。さらに、側坐核内側部に投射するドーパミン神経活動が消去学習を促進し、内側前頭前野に投射するドーパミン神経は消去学習を阻害することを発見しました。
今後の期待
本成果は、ドーパミン神経が報酬の予測誤差を計算しているという従来の知見に加え、嫌悪刺激の予測誤差にも関係していることを示す新たな知見です。
持続エクスポージャー療法と側坐核でのドーパミンを増やす薬物治療などとの併用で、持続エクスポージャー療法を促進できるようになると期待できます。また、研究チームの発見した内側側坐核に投射するドーパミン神経の回路は、報酬によって活性化することが知られています。持続エクスポージャーに報酬を組み合わせることで内側側坐核のドーパミンが増加させ、効果的に恐怖記憶を抑制できる可能性があります。
原論文情報
Ray Luo†, Akira Uematsu†, Adam Weitemier, Luca Aquili, Jenny Koivumaa, Thomas J.McHugh and Joshua P. Johansen*, “A dopaminergic switch for fear to safety transitions”, Nature Communications, 10.1038/s41467-018-04784-7
発表者
理化学研究所
脳神経科学研究センター 学習・記憶神経回路研究チーム
チームリーダー ジョシュア・ジョハンセン (Joshua P. Johansen)
研究員 植松 朗 (うえまつ あきら)
研究員(研究当時) レイ・ルオ (Ray Luo)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
補足説明
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- ドーパミン
- 神経伝達物質の一つ。ドーパミン受容体を持つ神経細胞に作用して情報を伝達する。
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- 側坐核
- 報酬や快感などに関与する脳領域で、依存症などにも関係する。側坐核内は、構造的にも機能的にも異なるコアとシェルという領域に分かれている。
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- 心的外傷後ストレス障害(PTSD)
- 生命を脅かすような非常に強い恐怖の記憶が残り、何気ない状況でも恐怖記憶がフラッシュバックすることにより、日常生活に支障をきたしてしまう障害。PTSDはPost-Traumatic Stress Disorderの略。
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- 持続エクスポージャー療法
- 不安障害に用いられる行動療法。患者が恐怖や不安を抱くものに、危険を伴わない状況下にて段階的にさらすことで、恐怖や不安を克服させる方法。
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- 光遺伝学
- 光と遺伝子操作を使って、神経回路機能を活性化もしくは抑制させる手法。ミリ秒単位の時間的精度を持った制御を特徴とする。別名はオプトジェネティクス(光を意味するOptoと遺伝学を意味するgeneticsを合わせた言葉)。
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- 前頭前野
- 大脳皮質のうち前頭部に位置する領域。ヒトでは計画や論理的思考などをつかさどる。
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- 予測誤差
- 予期する報酬よりも予期しなかった報酬を受け取るときに、ドーパミン神経はより反応する。一方で、予期していた報酬が来ない場合にはドーパミン神経の反応は下がる。これを予測誤差と呼ぶ。
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- アーキロドプシン、イオンポンプ
- イオンポンプは、イオンの能動輸送を行う膜タンパク質の総称。アーキロドプシンは高度好塩菌の一種から取られた光感受性陽イオンポンプで、このポンプを発現する神経細胞は、緑色光を照射すると活動の働きが抑制される。
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- ベクター(運び屋)
- アデノ随伴ウイルスベクター。ヒトに感染しても重篤な症状を引き起こさないアデノ随伴ウイルスを改良し、安全性に優れ、かつ生体内のさまざまな細胞に高効率でDNAを導入できる遺伝子の運び屋。
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- すくみ反応
- 動物の恐怖反応の一つで、体を動かさずにしばらくじっとしている行動。
図1 ラットにおける恐怖条件づけ学習と消去学習
まず、音と電気ショックの組み合わせで恐怖条件付けの学習を行う。恐怖条件づけ後は音を聞くとすくみ反応を示すが、その後音だけを繰り返し提示すると、すくみ反応は徐々に減少する。
図2 ドーパミン神経細胞抑制実験
上段) 実験のイメージ図。アーチロドプシンをラットの腹側被蓋野(VTA)で発現させ、ラットが消去学習中の音の間、もしくは音の後に、ドーパミン神経細胞の活動を抑制した(黄色線)。
下段) 実験結果。消去学習中に音の後(恐怖条件づけのときに電気ショックが来ていた時間)でドーパミン細胞活動を抑制すると、対照群に比べて恐怖記憶が強くなること、すなわち消去が起こりづらくなることが明らかになった。