アルツハイマー病・認知症の克服に向けて国際的な予防・治療薬治験との連携が本格始動へ
2022-02-03 東京大学,日本医療研究開発機構
発表者
岩坪 威(東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻 教授/東京大学医学部附属病院早期・探索開発推進室長)
新美 芳樹(東京大学医学部附属病院早期・探索開発推進室 特任講師)
発表のポイント
- アルツハイマー病(AD)の早期・無症候段階にあたるプレクリニカル期AD(注1)の診断と治験に即応できるコホートの構築を目指す『J-TRC研究』(注2)が開始から3年を迎え、ウェブスタディに7,540名、オンサイト研究に333名と、本邦最大級規模の研究参加が達成されました。
- オンサイト研究参加者のうち、プレクリニカル又はプロドローマル期AD(注3)に相当するPET検査でのアミロイド上昇者の比率は25.5%であり、血漿Aβ42スコアはPETの結果を高率に予測しました。
- プロドローマル期・認知症期ADにおける抗アミロイド療法の可能性と限界が治験結果から明らかになりつつある中、J-TRC研究の進捗により、超早期の治療・予防が射程に入る新たなステージを迎えました。その入口となるウェブスタディに、更なる多数のボランティアのご参加が期待されます。
発表概要
高齢社会の本格化とともに本邦でも認知症の予防・治療は重要課題となり、特にアルツハイマー病(AD)のメカニズムに即した治療法(疾患修飾療法)の実用化は焦眉の急となっています。近年注目を浴びているaducanumab等抗アミロイドβ抗体薬の、有症状期ADの治療におけるポテンシャルとその限界が治験結果から明らかになるにつれ、より早期の無症候段階「プレクリニカル期AD」における超早期治療が注目され、治験も開始されています。
J-TRC研究ではプレクリニカル期ADの方を、インターネットを介したウェブスタディへの登録を入口とし、アミロイドPET、血液バイオマーカー等を含むオンサイト研究において同定し、追跡研究を実施するとともに、希望者の治験参加を支援する「治験即応コホート」の構築を通じて、治療・予防薬開発の促進を目指しています。開始から3年を迎えたJ-TRC研究にはウェブスタディ7,540名、オンサイト研究333名の参加が得られ、オンサイト研究参加者のうちプレクリニカル又はプロドローマル期ADに相当するPET検査でのアミロイド上昇者の比率は25.5%でした。新規のバイオマーカーとして期待されている血漿Aβ42コンポジットスコア(注4)により、PET結果をよく予測できることも実証されました。これらの成果に基づき、治験に即応できるコホートが構築され、希望される方への治験情報の提供も開始、一部の方はプレクリニカル期の抗アミロイドβ抗体薬治験に参加され始めています。今後、複数の薬剤の治験が展開される状況を迎える中で、J-TRCコホートのさらなる拡大により、ADの超早期治療が実現することが期待されます。
発表内容
東京大学大学院医学系研究科脳神経医学専攻・神経病理学分野および同大学医学部附属病院 早期・探索開発推進室(教授 岩坪 威/いわつぼ たけし)では、アルツハイマー病(以下AD)等の認知症に対する治療薬・予防薬の早期実用化を目標に、2019年よりADの早期・無症候段階「プレクリニカル期AD」を主対象とする研究プロジェクト『J-TRC(ジェイ・トラック)』(「認知症プレクリニカル期・プロドローマル期を対象とするトライアルレディコホート構築研究)を日本医療研究開発機構(AMED)の支援により推進してきました。インターネットを介した研究参加登録システム「J-TRCウェブスタディ」と、これに続いて行われるPETスキャン等精密検査「J-TRCオンサイト研究」の開始から3年目に入り、多数の参加者の登録・検査が達成され、国際的なAD予防薬治験の急速な拡大と連動し、J-TRCからこれら治験への参加支援も本格的に可能なステージに到達しました。今回、J-TRCの研究進捗状況について、AD治療・予防薬実用化に向けての見通しを踏まえて発表を行います。
アルツハイマー病治療薬・予防薬開発の現状とプレクリニカル期ADへの注目
国内の認知症患者数は、2025年には730万人、2050年には1,016万人に達すると推計され(平成26年度厚生労働省発表)、そのうちアルツハイマー病(以下、AD)は半数以上を占め、世界的にも早急な対策が求められています。これまでにADにおける神経細胞の変性・脱落のメカニズムを直接抑える「疾患修飾薬(DMT)(注5)」、中でもADの重要な原因であるアミロイドβ(Aβ)の蓄積を防止する医薬の開発が進んでいます。2021年には米国においてAβを標的とする抗体医薬(aducanumab)が、軽度認知障害期(プロドローマル期に同義)と軽症認知症期(合わせて早期ADと総称)を対象に、初めてのDMTとして迅速承認を受け、本邦でも承認審査が継続されています。さらに抗Aβ抗体医薬の早期ADを対象とする国際治験が複数の薬剤について進行中であり、それらの結果も2023年初頭までに明らかになるものと見込まれています(注6)。しかし現在までに公表されている結果では、早期ADの段階で抗Aβ薬を適用した場合でも、認知機能障害の進行抑制効果は20-30%と限定的であることも示されています。これは、ADで認知機能の症状が明らかになった段階では、すでに相当数の神経細胞が脱落しているため、この段階で原因を遮断しても、細胞変性の進行を食い止めることが困難であり、治療効果を最大化できないためと考察されています。このため次の目標として、まだ無症状であるが脳の病理変化が始まっている「プレクリニカル期」を対象に、DMTの治験が開始されています。しかしプレクリニカル期の方は認知機能低下の症状がないため、医療や研究機関との接点が生じないことが治療法の開発が遅れてきた要因でした。このため、プレクリニカル期にあたる方々を効率的に同定・診断する方法やシステムを整備することが課題となってきました。
J-TRC研究では何を狙いとして、どのような研究を行っているのか
J-TRC研究では、50歳から85歳までの認知症でない方々に、まず「J-TRCウェブスタディ」にオンラインで登録して頂きます(J-TRC(ジェイ・トラック))。インターネット上のホームページを介した同意・基本情報登録後、15分程度で実施可能な2種類の認知機能テストを実施し、以降3ヶ月ごとにインターネット上で検査を反復継続します。将来的なAD発症のリスク上昇が疑われる方を含めて、一部の参加者を、医療研究機関に来院して行う第2段階の「J-TRCオンサイト研究」に招待します。オンサイト研究は東京大、東北大、都健康長寿医療センター、国立精神・神経医療研究センター、国立長寿医療研究センター、大阪大、神戸大の国内7カ所の主要臨床施設で行われ、心理士が対面で行う認知機能検査、アミロイドPETスキャン、血液バイオマーカー等の精密検査を行います。オンサイト研究の結果アミロイド上昇が疑われる方は、J-TRCコホートに登録して定期的な追跡検査を受けていただき、一部の方は、タウPETスキャンを含む”PAD-TRACK研究“(注7)と連携して追跡します。一方、予防・治療薬の治験への参加を希望される方には、対象となるプレクリニカル期やプロドローマル期AD治験に関する情報を提供し、円滑なご参加を支援します。
J-TRC研究でこれまでに何がわかり、今後プレクリニカル期AD治験に向けどのように展開するのか
J-TRCウェブスタディは2019年10月より開始され、2022年1月19日現在7,540名の登録を達成しました(図1)。J-TRCオンサイト研究は2020年7月より開始され、333名が登録されました(図2)。アミロイドPET検査で視覚読影又は定量解析にて脳アミロイドの上昇が疑われる方は判定完了例302例中77例(25.5%)にのぼり、血漿Aβ42コンポジットスコア(島津テクノリサーチ社にて測定)は、Area Under the Curve (AUC)値 0.931とアミロイドPETの結果の予測能に優れていることが実証されました(図3)。これまでの治験参加の支援例としては、米国ACTC, エーザイ社等による国際官民パートナーシップ(PPP)型治験”AHEAD”があり(注8)、本試験に対してもJ-TRCコホートから希望者の参加が始まっています。今後、PAD-TRACK研究とも連携して本邦プレクリニカル期AD者の特徴や進行過程を解析するとともに、血漿Aβ42に加えて有効性の注目されている血漿リン酸化タウ測定なども併用し、一部コホートでは血漿バイオマーカーによるスクリーニングの先行も試み、PETスキャンによるプレクリニカル期AD診断の効率化を模索します。さらに本年以降、抗アミロイドβ抗体医薬を含む種々のDMTを用いた複数のプレクリニカル期AD治験が展開されていくこと(注8)に対応し、参加者の条件と希望に合った治験への参加を支援し、本邦におけるプレクリニカル期ADの超早期治療実現を加速します。J-TRC研究は、国立研究開発法人 日本医療研究開発機構 (AMED)認知症研究開発事業の支援を受けて、2024年3月31日までの実施が予定されており、今後もJ-TRCコホートの拡大と治験参加支援を推進して参ります。
図1 J-TRCウェブスタディの参加状況(2022.1.19時点) 紫線は累計数、青は日別登録数を示す。
図2 J-TRCオンサイト研究の参加状況(2022.1.18時点) 橙線は累計、青は週毎の組入数を示す。
図3 J-TRCオンサイト研究における血漿Aβ42コンポジットスコアによる脳アミロイドPET結果の予測能
カットオフ値を0.601にとると、Area Under the Curveは 0.913と良好な識別能を示した。
用語解説
- (注1)プレクリニカル期AD
- 画像診断やバイオマーカーにより脳にアミロイドβ蓄積等ADの病理学的変化の存在が疑われるが、認知機能は正常である状態。MCI期(プロドローマル)ADと正常の中間状態と考えられ、今後開発されるAD疾患修飾療法の最適な対象として期待されている。
- (注2)J-TRC研究
- 日本医療研究開発機構(AMED)の支援により2019年より認知症研究開発事業の1つとして開始された「認知症プレクリニカル期・プロドローマル期を対象とするトライアルレディコホート構築研究」により行われている臨床研究。Japanese Trial Ready Cohort for preclinical and prodromal ADの略称。インターネットを介して研究に参加登録し、ウェブ上での認知機能検査等を継続的に行う「J-TRCウェブスタディ」(東京大学医学部倫理委員会2019年9月2日承認 審査番号2019132NI)」と、ウェブスタディ参加者等を研究医療機関に招待し、対面での認知機能検査、アミロイドPETスキャン、血液バイオマーカー検査等を行う「J-TRCオンサイト研究」(東京大学医学部倫理委員会2019年12月19日承認 審査番号2019006P)から構成される。プレクリニカル期AD等の早期段階における治験参加条件を満たす集団(トライアル・レディ・コホート)を構築し、治療薬開発を促進することを目標とする。
- (注3)プロドローマル期AD
- 認知機能の低下が臨床的に確認されるが、独立した生活が可能な程度にとどまるため、認知症と診断されない正常と認知症の中間段階を軽度認知障害(MCI)という。近年認知症の前駆段階として早期診断・治療上で注目されており、特にADの前駆段階としてのMCIは健忘等の記憶障害が前景に立つことが特徴とされプロドローマル期ADとも呼ばれる。
- (注4)血漿Aβ42コンポジットスコア
- 脳脊髄液Aβ42の低下は脳アミロイド蓄積のバイオマーカーとして確立されていたが、血液での変化は不明であった。2017-18年にかけ、本邦の中村昭範(国立長寿医療研究センター)、田中耕一(島津製作所)ら、米国ワシントン大、C2N社のBatemanらはそれぞれ独立に、血漿中Aβ42を免疫沈降後質量分析で定量することにより、Aβ42比率の相対的低下を実証し、脳アミロイド蓄積の新規バイオマーカーとして注目されている。
- (注5)疾患修飾薬
- Disease-modifying therapy(drug)の訳。疾患の発症メカニズムに作用し、疾患の進行過程を遅延させる治療薬。ADに対する抗アミロイドβ抗体薬などがその代表例。
- (注6)早期ADに対する抗アミロイドβ抗体薬治験
- AD脳に蓄積するアミロイドβに結合するモノクローナル抗体aducanumabの効能を評価する第3相試験として2015-2019年にBiogen社によりEMERGE、ENGAGE試験が行われた。無益性解析における判断から両治験は早期終了されたが、最終結果ではEMERGE試験では一次エンドポイントCDR-sum of boxの18ヶ月進行度が高用量群でプラセボに対し22%有意に改善、ENGAGE試験では差が認められなかった。2021年6月米国食品医薬品局はaducanumabに対し迅速承認を与えたが、本邦では継続審査中である。同様のアミロイド除去性抗体薬としてエーザイ社のlecanemab、ロシュ社のgantenerumab、イーライ・リリー社のdonanemabの第3相試験が進行中であり、2022年後半から2023年前半に終了の見込みである。
- (注7)PAD-TRACK研究
- Preclinical ADの自然歴(治療介入を受けない際の疾患の進行の様態)を追跡するAMED認知症研究として、東京大・新美芳樹を代表者とし2021年度より開始された。J-TRCを中心に本邦のプレクリニカル期AD研究と連携し、タウPETを始めとする精査を行う。
- (注8)プレクリニカル期ADに対する抗アミロイドβ抗体薬治験
- AHEAD治験は、米国NIHが支援する全米組織Alzheimer Clinical Trial Consortiumが主導、エーザイ社が治験実施private sectorとして参加するプレクリニカル期AD 官民パートナーシップ(public private partnership; PPP)型治験(BAN2401についてプレクリニカル(無症状期)アルツハイマー病を対象とした新たな臨床第Ⅲ相試験(AHEAD 3-45)を開始 (2020年7月14日ニュースリリース /エーザイ株式会社))。抗Aβ抗体薬lecanemabをアミロイドPET陽性、認知機能が正常な参加者に4年間にわたり投与し、鋭敏な認知機能指標「Preclinical Alzheimer Cognitive Composite」(4種の認知機能検査の総合スコア)の改善により効果を判定する。標準的なプレクリニカル期ADを対象とするA45研究、アミロイド中間域を対象とするA3研究からなり、米国、日本、豪州、シンガポール、欧州等で行われる。抗Aβ抗体薬donanemabをプレクリニカル期ADに投与するTrailblazer-Alz3試験も米国Banner研究所とイーライ・リリー社によるPPP型治験として開始されている(リリー、バナー・アルツハイマー研究所とdonanemabの予防効果を評価する第Ⅲ相臨床試験で協働 アルツハイマー病に関連する認知機能及び日常生活機能の低下のリスクを有する方が対象(2021年7月27日プレスリリース/日本イーライリリー) PDF)。
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