2023-11-30 理化学研究所
理化学研究所(理研)生命機能科学研究センター バイオコンピューティング研究チームの神田 元紀 上級研究員(神戸市立神戸アイセンター病院研究センター 研究員)、株式会社VC Cell Therapyの髙橋 政代 代表取締役社長(神戸市立神戸アイセンター病院研究センター 顧問)、ダイダン株式会社技術研究所の古川 悠 課長代理、ロボティック・バイオロジー・インスティテュート株式会社の松熊 研司 代表取締役社長らの共同研究グループは、ヒューマノイドロボットを実際の網膜再生医療の臨床研究で利用するために、移植用細胞の調製に不可欠な実験空間の清浄度をクリアしたロボット用細胞培養加工施設[1]「R-CPF(Robotic Cell Processing Facility)」を世界で初めて開発しました。
このR-CPFで培養したiPS細胞[2]を用いる臨床研究は、2022年2月に厚生労働省の承認を受けました。今後、ヒューマノイドロボットを臨床の現場で使用可能とすることで、再生医療の拡大に貢献すると期待できます。
再生医療に用いられる移植用の細胞の製造は、培養環境の無菌化と高い操作再現性が求められ、作業者への負担が大きいことが課題となっています。この課題の解決策として、ロボットの導入による細胞製造工程の自動化が注目されています。今回、共同研究グループは、高精度な生命科学実験動作が可能な汎用ヒト型ロボットLabDroid「まほろ」[3]と、コンパクトなクリーンルームユニットAll-in-One CP Unit[4]を組み合わせたシステムを設計し、臨床研究に必要なレベルの清浄度での細胞調製の自動化が可能であることを実証しました。
本研究は、科学雑誌『SLAS Technology』オンライン版(10月29日付)に掲載されました。
ロボット用細胞培養加工施設(R-CPF)の全体像
背景
神戸市立神戸アイセンター病院をはじめとする共同研究グループは、眼の難病である加齢黄斑変性[5]を含む網膜色素上皮(RPE)不全症[6]の患者に対する網膜再生医療に取り組んでいます。iPS細胞から分化誘導した網膜色素上皮細胞(RPE細胞)[7]を移植する細胞治療の臨床研究は2014年に世界初の1例目注1)、2017年に5例注2)の実施が報告され、2021年以降も引き続き移植の実施が発表される注3)など、大きく進展しています。
一方で、今後さらに多くの患者に対する細胞治療を実現するためには、いくつかの問題を解決する必要があります。例えば、移植用の細胞の製造は作業者への身体的・精神的な負担が大きく、高い再現性で作業できる人材の育成も容易ではありません。これは、再生医療のコストが下がりにくい理由の一つに挙げられます。この問題の克服には、細胞製造現場へのロボットの導入による細胞製造工程の自動化が考えられます。
これまでに共同研究グループでは、2020年に発表した「ヒューマノイドロボットとAIによる自律細胞培養」注4)、2022年に発表した「再生医療用細胞レシピをロボットとAIが自律的に試行錯誤」注5)の研究開発を通して汎用ヒト型ロボットLabDroid「まほろ」による細胞培養の利用可能性を検証してきました。これらの成果を得る過程において、人間の実験手技をロボットに移転し、治療用・臨床研究用として利用可能な品質を備えた細胞をロボットでも培養できることが分かりました。
一方で、治療・臨床に細胞を用いるための最も重要な要件の一つは、製造過程における無菌環境・清浄度であり、作業環境および培養した細胞が無菌であることが求められます。人間が手動で細胞を製造や調製をする場合には、細胞培養加工施設(Cell Processing Facility:CPF)と呼ばれる清浄度が高度に管理された施設で細胞を取り扱います。しかし、ヒューマノイドロボットを動作主体とし、無菌環境を実現した施設はこれまでに存在しませんでした。
本研究では、清浄度が管理された環境でヒューマノイドロボットを利用するために、空調管理されたクリーンルームユニットを活用したR-CPF(Robotic Cell Processing Facility)を新たに開発し、実際に無菌環境を構築できることを実証しました。
注1)2014年9月18日お知らせ「滲出型加齢黄斑変性に対する自家iPS細胞由来網膜色素上皮シート移植に関する臨床研究」第1症例目の被験者の退院について」
注2)2017年11月1日神戸市立医療センター中央市民病院 報道発表資料「「滲出型加齢黄斑変性に対する他家 iPS 細胞由来網膜色素上皮細胞懸濁液移植に関する臨床研究」における被験者募集の終了について(外部サイト)」
注3)2021年3月11日神戸市立神戸アイセンター病院 報道発表資料「「網膜色素上皮(RPE)不全症に対する同種 iPS 細胞由来 RPE 細胞懸濁液移植に関する臨床研究」の1例目の移植手術の実施について(外部サイト)」
注4)2020年12月4日プレスリリース「ヒューマノイドロボットとAIによる自律細胞培養」
注5)2022年6月28日プレスリリース「再生医療用細胞レシピをロボットとAIが自律的に試行錯誤」
研究手法と成果
共同研究グループはまず、R-CPFのレイアウトを検討しました。ロボットが細胞を直接操作するロボットエリアを、人間が資材などの搬入出やロボットの操作を行うオペレータエリアで囲う構造としました(図1左)。それぞれのエリアの清浄度レベル[8]は、日本再生医療学会の「再生医療等安全性確保法における細胞培養加工施設での無菌操作に関する考え方」注6)に記載の構造設備基準を参考にしました(図1中)。ロボットエリアは無菌操作等区域[8](清浄度レベル グレードA)、オペレータエリアは清浄度管理区域[8](清浄度レベル グレードB)、更衣室を清浄度管理区域(清浄度レベル グレードC)に設定し、これらの基準を達成するための換気が可能となるように清浄空気を供給する設備(ファンフィルターユニット:FFU)を設置しました。
次に、コンピュータによる空調シミュレーション(Computational Fluid Dynamics:CFD)を用いて、必要な清浄度を達成するための空調検証を行いました(図1右)。空気齢は給気口から室内に入った空気がその場所に到達するまでにかかる時間を示しており、値が小さいほど頻繁に換気がなされていることを示します。例えば、最も空気がよどんでいると計算されたロボットエリア背面部においても、1時間に20回程度の換気が行われると推定される空気齢と計算されました。これらの結果から、今回検討した施設レイアウトにおいて、必要な清浄度を達成するために必要な換気回数が満たされることが予測されました。こうした検討を経て、神戸市立神戸アイセンター病院にR-CPFが実際に設置されました(図2)。
図1 R-CPFのレイアウトと空調シミュレーション
(左)施設の平面図。ロボットエリア、オペレータエリア、更衣室により構成される。実線の矢印は人の動線を示し、点線矢印は細胞・試薬・消耗品などの動線を示す。ロボットは正面が下側になるように設置。施設の清浄度レベルはロボットエリアがグレードA、オペレータエリアがグレードB、更衣室がグレードCに設定された。
(中)清浄度レベルの目標値。日本再生医療学会の「再生医療等安全性確保法における細胞培養加工施設での無菌操作に関する考え方」から抜粋。菌の個数は、培地上でコロニーを形成できた数(Colony Forming Unit:CFU)として測定した。
(右)気流の数値流体力学(CFD)シミュレーション結果。床からの高さ1m地点における空気齢(単位は秒)。無菌操作等区域であるロボットエリアは、ロボット背面を含めて空気齢の値が小さく(ヒートマップの寒色系で表現)、この空間が頻繁に換気されていることを示す。
図2 神戸市立神戸アイセンター病院に設置されたR-CPFの写真
次に共同研究グループは、R-CPFにてロボットを動作主体とする細胞培養を行い、R-CPFの各エリアにて清浄度レベルが満たされているかを検証しました。R-CPF内外の33地点において浮遊菌、落下菌、表面付着菌のモニタリングを実施しました(図3)。また、本施設の構造はこれまでのCPFとは異なる前例のない形式であったため、清浄度に影響を与えるR-CPF内の作業者(オペレータ)の動線や作業手順(Standard Operating Procedure:SOP)の策定もこの段階で試行錯誤し、制定・評価しました。この結果、モニタリング方法を含むSOPを確立し、全ての地点において浮遊微生物・付着微生物の測定値が清浄度レベルを満たしていることを確認しました。
最後に、R-CPFの臨床研究への利用可能性を評価するため、過去の臨床研究で使用されたものと同じ細胞、同じプロトコル、人間の作業者と同じ操作(に相当するロボットの動作)、同じ細胞の品質管理試験を用いて、iPS細胞から分化誘導したRPE細胞の培養を10日間行いました。全ての地点における浮遊菌・落下菌・表面付着菌の測定値、品質管理試験(細胞生存率、細胞密度、無菌試験)は基準値内と判定されました。これらの結果から、R-CPFが臨床研究における細胞調製に利用可能なシステムであることが実証されました。
図3 浮遊菌・落下菌・表面付着菌のモニタリングポイント
R-CPF内外の33地点において浮遊菌・落下菌・表面付着菌のモニタリングを実施した。表面付着菌の検出はスタンプ法(寒天培地に表面を接触させる方法)とスワブ法(表面を拭いとる方法)の2種類を用いた。
今後の期待
本研究の成果は、これまで作業環境が整わずロボットを導入できなかった臨床研究での細胞培養工程へのロボットの導入を可能としました。ロボットの導入による作業者の負担低減、作業者の教育コストの低減、作業の再現性の向上は、再生医療・細胞治療コストの低減につながることが期待されます。
神戸市立神戸アイセンター病院に設置したR-CPFを細胞培養加工施設として利用する臨床研究は、2022年2月に厚生労働省の承認を受けました注6)。また、2022年12月には本臨床研究において細胞調製作業の一部にR-CPFを利用したことを公表しました注7)。この臨床研究では、ロボットによる作業は、凍結解凍したRPE細胞の培養の一部工程のみが承認されています。今後、対象工程は順次追加されていく予定です。
また、基礎研究の成果を臨床の現場に応用する「トランスレーショナル・リサーチ」では、応用しようとする研究成果の各工程を担当する者が異なる場合が多く、基礎から臨床への橋渡しがうまく進まないケースがあります。本研究でR-CPFに用いたロボットは、これまでの基礎研究で用いているものと同じヒューマノイドロボットを採用しました。これにより、基礎研究の研究室(理研など)のロボットで発見・確立した培養条件を、そのまま臨床現場(神戸市立神戸アイセンター病院など)のロボットで実行することが可能となります。人間を介した技術移転の必要がなくなるため、基礎研究と臨床現場の橋渡しが容易となり、治療開発をさらに加速させることが期待されます。
注6)2022年2月18日神戸医療産業都市推進機構 報道発表資料「「網膜色素上皮(RPE)不全症に対する同種 iPS 細胞由来 RPE 細胞 凝集紐移植に関する臨床研究」について」
注7)2022年12月9日神戸市プレスリリース 「「網膜色素上皮(RPE)不全症に対する同種iPS細胞由来RPE細胞 凝集紐移植に関する臨床研究」の1例目の移植手術の実施について」
補足説明
1.細胞培養加工施設(Cell Processing Facility:CPF)
細胞を培養するために必要な清浄度が保たれている専用のクリーンルーム。
2.iPS細胞
成人の皮膚細胞などの体細胞にOct3、Sox2、Klf4遺伝子などを導入して初期化し多能性を持たせることで、人工的に作製した多能性幹細胞。
3.汎用ヒト型ロボットLabDroid「まほろ」
ロボティック・バイオロジー・インスティテュート株式会社(株式会社安川電機の子会社)により開発された生命科学実験用のヒューマノイドロボットシステム。株式会社安川電機の産業用7軸双腕ロボットの周辺に、人間が実験で用いるものと同じ実験器具を配置している。ピペット操作やインキュベーターの扉の開け閉めなど、人間が手で行っていた実験操作がロボットでも実行可能になった。
4.All-in-One CP Unit
ダイダン株式会社により開発されたクリーンルームユニット。細胞培養加工施設に求められる更衣室や細胞調製室などの機能をユニット化することで省スペースに簡易に設置が可能。
5.加齢黄斑変性
加齢黄斑変性とは加齢により網膜の中心部である黄斑に障害が発生して、見えにくくなる疾患で、滲出型と萎縮型がある。滲出型は異常な血管(脈絡膜新生血管)が脈絡膜から網膜色素上皮の下あるいは網膜と網膜色素上皮の間に侵入して網膜に障害が起こる病気。異常な血管は、血液の成分を漏出させたり、破れたりする。血液成分が漏出すると網膜が腫れたり(網膜浮腫)、網膜下に液体がたまったり(網膜下液)して、網膜が正常に働かなくなり視力が低下する。血管が破れると出血し、網膜に障害を引き起こす。萎縮型は視細胞と網膜色素上皮を含む網膜外層の変性が徐々に地図状に拡大し、視力や視野の低下を引き起こす。
6.網膜色素上皮(RPE)不全症
網膜色素上皮細胞の異常が原因で起こる網膜変性疾患の疾患群。加齢黄斑変性の萎縮型、網膜色素変性の一部およびその類縁疾患などが該当する(神戸市立神戸アイセンター病院報道発表資料より一部改変して転載)。
7.網膜色素上皮細胞(RPE細胞)
RPE細胞は網膜を構成する細胞の一つ。理研や神戸市立神戸アイセンター病院などにより、iPS細胞由来RPE細胞を用いた再生医療の臨床研究が行われている。RPEはretinal pigment epitheliumの略。
8.清浄度レベル、無菌操作等区域、清浄度管理区域
清浄度レベルはグレードA〜Dで設定され、グレードAが最も清浄度が高い。無菌操作等区域と清浄度管理区域は、培養した細胞や容器が取り扱われる区画であり、浮遊微粒子および微生物による汚染の程度が定められた限度内に維持されるよう管理される清浄区域。
共同研究グループ
理化学研究所 生命機能科学研究センター バイオコンピューティング研究チーム
上級研究員 神田 元紀(カンダ・ゲンキ)
(神戸市立神戸アイセンター病院 研究センター 研究員)
学振特別研究員PD 加藤 月(カトウ・アカリ)
株式会社VC Cell Therapy
代表取締役社長 髙橋 政代(タカハシ・マサヨ)
(株式会社ビジョンケア 代表取締役社長、神戸市立神戸アイセンター病院 研究センター 顧問、理研バトンゾーン研究推進プログラム 眼科領域遺伝子細胞治療研究チーム 客員研究員)
研究開発部 研究員 寺田 基剛(テラダ・モトキ)
(神戸市立神戸アイセンター病院 研究センター 研究員)
研究開発部 研究員 柴田 由美子(シバタ・ユミコ)
(神戸市立神戸アイセンター病院 研究センター 研究員)
研究開発部 研究員 飯田 智光(イイダ・トモミツ)
(神戸市立神戸アイセンター病院 研究センター 研究員)
研究開発部 研究員(研究当時)北川 道憲(キタガワ・ミチノリ)
研究開発部 研究員 加藤 慎也(カトウ・シンヤ)
研究開発部 部長 前田 忠郎(マエダ・タダオ)
(神戸市立神戸アイセンター病院 研究センター 医師)
ダイダン株式会社 技術研究所
課長代理 古川 悠(コガワ・ユウ)
主任 依光 剛史(ヨリミツ・ツヨシ)
ロボティック・バイオロジー・インスティテュート株式会社
代表取締役社長 松熊 研司(マツクマ・ケンジ)
研究支援
本研究は、理化学研究所運営費交付金(生命機能科学研究)をはじめとする共同研究グループの各機関内の研究費で実施されるとともに、科学技術振興機構(JST)「未来社会創造事業」の「探索加速型・共通基盤領域(運営統括:長我部信行)」における研究課題「ロボティックバイオロジーによる生命科学の加速(研究代表者:髙橋恒一、課題番号:JPMJMI20G7)」、日本医療研究開発機構(AMED)再生医療実現拠点ネットワークプログラム「疾患・組織別実用化研究拠点(拠点A)」の「視機能再生のための複合組織形成技術開発および臨床応用推進拠点(拠点長:髙橋政代)」による助成を受けて行われました。
原論文情報
Motoki Terada, Yu Kogawa, Yumiko Shibata, Michinori Kitagawa, Shinya Kato, Tomomitsu Iida, Tsuyoshi Yorimitsu, Akari Kato, Kenji Matsukuma, Tadao Maeda, Masayo Takahashi*, Genki N. Kanda*(*責任著者), “Robotic cell processing facility for clinical research of retinal cell therapy”, SLAS Technology, 10.1016/j.slast.2023.10.004
発表者
理化学研究所
生命機能科学研究センター バイオコンピューティング研究チーム
上級研究員 神田 元紀(カンダ・ゲンキ)
(神戸市立神戸アイセンター病院 研究センター 研究員)
株式会社VC Cell Therapy
代表取締役社長 髙橋 政代(タカハシ・マサヨ)
(神戸市立神戸アイセンター病院 研究センター 顧問)
ダイダン株式会社 技術研究所
課長代理 古川 悠(コガワ・ユウ)
ロボティック・バイオロジー・インスティテュート株式会社
代表取締役社長 松熊 研司(マツクマ・ケンジ)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
神戸市立神戸アイセンター病院 事務局 経営管理課 広報担当
株式会社VC Cell Therapy 広報担当
ダイダン株式会社 経営企画本部 コーポレートコミュニケーション部
ロボティック・バイオロジー・インスティテュート株式会社