2024-03-16 東京大学
豊島 有(生物科学専攻 准教授)
佐藤 博文(研究当時:特任助教/現:日本医科大学医学部 助教)
永田 大貴(研究当時:学部生/現:東京大学大学院情報理工学系研究科 修士課程)
金森 真奈美(生物科学専攻 学術専門職員)
JANG Moon Sun(研究当時:特任研究員/現:名古屋大学大学院理学研究科 特任講師)
久世 晃暢(研究当時:生物科学専攻 修士課程)
大江 紗(研究当時:九州大学 博士課程)
寺本 孝行(九州大学 准教授)
岩崎 唯史(茨城大学 講師)
吉田 亮(統計数理研究所 教授)
石原 健(九州大学 教授)
飯野 雄一(生物科学専攻 教授)
発表のポイント
- 線虫C.エレガンスの頭部に位置する全ての神経細胞の活動を1細胞レベルで計測し、数理解析や全脳シミュレーションを駆使して、神経回路がどのように相互作用しながら活動しているかを明らかにしました。
- 全脳神経活動は個体ごとの差異が大きいことがわかりましたが、その中に隠れていた、個体間に共通する神経活動モチーフを抽出することに成功しました。
- 本研究で開発した、全脳神経活動に基づく予測モデルは、実際の神経回路が外界の情報を処理するしくみを理解するための基盤的なツールとして役立つことが期待されます。
全脳神経活動データからの活動モチーフ抽出と全脳シミュレーション (イメージ図)
発表概要
東京大学大学院理学系研究科の豊島有准教授、飯野雄一教授らをはじめとする共同研究グループは、線虫C.エレガンス(注1)の頭部に位置する全ての神経細胞の活動を1細胞レベル(注2)で同時に計測し、全脳神経活動の時間変化(時系列)を取得しました。取得した全脳活動時系列は個体ごとの差異が大きく、個体間に共通した特徴を探すことは困難でしたが、本研究で開発した数理解析手法(TDE-RICA)によって、個体間に共通する神経活動モチーフ(注3)を抽出することに成功しました。さらに神経細胞間の接続の情報(注4)も組み込んで、過去の神経活動に基づいて未来の神経活動を予測する時系列予測モデルを開発しました(gKDR-GMM, 図1)。このモデルを用いて神経細胞間の接続の強さの推定に成功し、全脳活動時系列に基づいた全脳シミュレーションを達成しました。これらの研究成果は、実際の神経回路が外界の情報を処理するしくみを理解するための基盤的な手法として役立つことが期待されます。
図1:時系列予測モデルgKDR-GMMの概要と全脳シミュレーションの様子
標的神経に入力する神経(左上)の過去の時系列を、次元削減によって潜在変数Uへ縮約し(左下)、確率的生成モデルを介して標的神経の1時点先の値を予測します(右下)。右上は全脳シミュレーションの様子。
発表内容
脳・神経系の働きは、動物の行動から人間の思考まで多くの生命現象にかかわっており、その動作原理の解明は神経科学の究極の目標のひとつとなっています。脳・神経系では複数の神経細胞が互いに接続されていて、神経活動の時間的な変化の信号をやり取りしながら、情報の処理を行っていると考えられていますが、その情報処理のしくみはよくわかっていません。本研究では、神経細胞の数が比較的少ない線虫C.エレガンスに注目し、実際の神経回路がどのように演算し、情報を処理しているのか明らかにすることを目指しました。
本研究ではまず、線虫の頭部全体を立体的に観察できる顕微鏡を用いて、約180個ある頭部神経細胞を同時に長時間撮影しました。撮影した立体動画像(注5)を解析して個々の細胞を同定し(注6)、各細胞の神経活動を抽出して、24個体分の全脳神経活動の時系列を取得しました。
これまでの先行研究では、同定できない細胞が存在して欠損値となることや、同定できない細胞が個体ごとに異なるために、個体数が増えると欠損値を含まない共通部分が小さくなってしまうことが問題でした。また時系列の点でも個体ごとの差異が大きく、個体間で共通した活動を探すことは困難でした。そこで本研究では、時間遅れ埋め込み(注7)と独立成分分析(注8)、行列分解(注9)を組み合わせた新たな数理解析手法(TDE-RICA, 図2)を開発しました。他の個体の全脳活動時系列を参照することで、同定できなかった神経細胞の活動を補完しつつ、個体間に共通する神経活動モチーフを抽出することに成功しました。この神経活動モチーフは同期的な活動が知られている神経細胞のセットと一致しており、開発した手法の妥当性を確認することができました。
図2:TDE-RICA法による神経活動の解析
左上は1個体の全脳活動時系列で、横軸が時系列を、縦軸が神経細胞を示し、1行が1細胞の活動時系列にあたります。同定できなかった神経細胞の活動は欠損値となります(白で表示)。他の個体の実験データと合わせてTDE-RICA法で解析することで、神経活動の14個のモチーフ(右上、個体間で共通)と、各モチーフの出現頻度(左下、個体ごとに別)が得られます。モチーフとその出現頻度の積によって元の時系列が再構成され、欠損値を補完できます。
また本研究では、過去の神経活動に基づいて未来の神経活動を予測する時系列予測モデル(gKDR-GMM)を開発しました(図1)。このモデルでは、神経細胞間の接続の情報に基づいて、標的神経に入力する神経細胞を特定します。次元削減(注10)によって入力神経の活動の過去時系列を縮約し、確率的生成モデル(注11)の入力として用いて、標的細胞の1時点先の神経活動を確率的に予測します。次元削減や確率的生成モデルのパラメータは、全脳活動時系列を用いて最適化しました。ある個体内で観察されたすべての神経細胞について、このモデルを作成して統合することで、過去の全脳活動時系列から1時点先の全脳活動を予測する時系列予測モデルを得ました。全脳活動の予測値を過去時系列として繰り返し利用することで、未来の全脳活動をシミュレーションすることができます。このシミュレーション時系列が元の時系列の主要な特徴を再現できることや、再現する上で神経系のノイズが重要であることがわかりました。このように本研究によって、実際の全脳神経活動に基づいた全脳シミュレーションが世界で初めて可能になりました。またこれまでの先行研究では、神経細胞間の接続の有無はわかっていましたが、接続の強さ(注12)を推定することは困難でした。本研究で作成した時系列予測モデルのパラメータから神経細胞間の相互作用の強さを推定したところ、中核となる神経回路内での相互作用は強く固定的である一方、感覚神経群との相互作用は弱く可変的であることや、ギャップ結合(注13)の重要性などが明らかになりました。
本研究ではこのように、実際の神経回路がどのように相互作用しながら活動しているかを明らかにすることができました。本研究で開発した手法や得られた知見は、実際の神経回路が外界の情報を処理するしくみを理解するための基盤的なツールとして役立つことが期待されます。
論文情報
- 雑誌名
PLoS Computational Biology論文タイトル
Ensemble dynamics and information flow deduction from whole-brain imaging data著者
Yu Toyoshima*, Hirofumi Sato, Daiki Nagata, Manami Kanamori, Moon Sun Jang, Koyo Kuze, Suzu Oe, Takayuki Teramoto, Yuishi Iwasaki, Ryo Yoshida, Takeshi Ishihara, Yuichi Iino
研究助成
本研究は、JST CREST「神経系まるごとの観測データに基づく神経回路の動作特性の解明(課題番号:JPMJCR12W1)」、「高速・高次元閉ループ光計測技術の確立と神経科学への応用(課題番号:JPMJCR22N4)」、さきがけ「線虫全神経の1細胞遺伝子発現解析と活動計測(課題番号:JPMJPR1947)」、さきがけ「線虫の化学走性行動の分子遺伝学:神経回路の形とはたらき(課題番号:7700000461)」、科研費「行動スイッチを引き起こす分子と神経回路の完全解明(課題番号:JP17H06113)」、「環境感知による忌避行動発現機構の統合的理解(課題番号:JP22H00416)」、「線虫を用いた強化学習の試み(課題番号:JP20K21805)」、「多様性から明らかにする記憶ダイナミズムの共通原理(課題番号:25115009)」、「ニューラルネットワークによる神経ネットワークの動作原理の解明(課題番号:JP19H04980)」、「空間情報の処理を担う神経ネットワークの動作原理の解明(課題番号:JP26830006)」、「線虫の塩走性行動における時間的多重化の 4Dイメージング解析(課題番号:JP18K14848 “Resonance Bio”)」、「4Dイメージングデータ内の密集した細胞核を正確に検出・追跡・定量する画像解析手法(課題番号:JP16H01418 “Resonance Bio”)」、「線虫の塩走性行動の包括的理解に向けた全中枢神経活動と行動の高精度同時計測(課題番号:JP17H05970 “Navi-Science”)」、「ナビ行動を生み出す神経情報処理の自由行動4Dイメージングによる解析(課題番号:JP19H04928 “Navi-Science”)」、「神経回路における多重情報コードの情報物理学的解析(課題番号:JP22H04838 “InfoPhys Bio”)」、「神経回路における感覚情報処理の制御機構の解明(課題番号:JP20115003)」、「行動の頑健性と柔軟性を制御する神経回路動態の可視化と機能制御(課題番号:JP18H05135)」、「線虫中枢神経系の全ニューロンの神経活動を同時にイメージングする方法の確立(課題番号:JP24650167)」、「線虫の嗅覚学習をモデルとした記憶の忘却を担う分子・神経回路機構(課題番号:JP19H03326)」、「線虫の全脳イメージングによる探索型ナビゲーション神経基盤の解明 (課題番号:JP16H06545)」、NTT Kyushu University Collaborative Research の支援により実施されました。
用語解説
注1 線虫C.エレガンス
正式な学名は「Caenorhabditis elegans(シーノラブダイティス・エレガンス)」。小さな線形動物で、バクテリアをエサとします。寿命が短く、神経系がコンパクトであるといった利点から、発生生物学や神経科学において広く用いられるモデル生物のひとつです。
注2 1細胞レベル
脳・神経系をはじめとして、臓器は一般的に多数かつ多種類の細胞から構成されています。これらをひとまとめにせず、1細胞ごとに計測することで、個々の細胞がどのように相互作用しながら臓器としての機能を生み出しているかがわかります。
注3 神経活動モチーフ
いくつかの神経細胞は協調しながら一定のパターンで活動します。こうしたパターン活動が神経活動時系列に何度も繰り返し現れることから、モチーフと名付けました。
注4 神経細胞間の接続の情報
脳は多くの神経がシナプスによって網の目のようにつながったネットワーク(神経回路)を形成しています。どの神経細胞が接続されているかという情報から神経回路の構造がわかり、脳がはたらくしくみを知る上で重要な手がかりになります。線虫C.エレガンスでは、頭部を輪切りにして電子顕微鏡で観察し、数年かけて立体再構成した1980年代の先駆的な研究などによって、全ての神経細胞に名前がつけられ、それぞれの特徴や、細胞同士の接続がアトラス(路線図)として記載されています。
注5 立体動画像
神経細胞など立体的に(3次元的に)分布している生体組織の細胞は顕微鏡のひとつの焦点面ですべて捉えることはできません。そのため、共焦点レーザー顕微鏡を用いて、焦点面を動かしながら平面画像を何枚も撮影し、3次元に再構成して立体的な静止画(立体画像)を作成しました。また、これを高速に繰り返すことができる顕微鏡を利用して、時間的に連続した多数の立体画像からなる動画(立体動画)を作成することで、神経活動を記録しました。
注6 細胞同定
遺伝子発現などの特徴に基づいて、観察された細胞をアトラスに記載された細胞のいずれかと対応づけ、名前を割り当てる作業を指します。神経活動を神経回路に対応づけ、個体間で比較したり、回路レベルの解析を行ったりするために不可欠な過程です。
注7 時間遅れ埋め込み
時間的な関係性を持つデータを解析する手法のひとつ。例えば湯沸かしポットにお湯が入っていて今の温度が90℃だったとします。それだけではどう変化しているか分かりませんが、少し前の時点で85℃だったと分かれば、加熱中なので次の時点では95℃ぐらいになると推測できます。一方、少し前の時点で95℃だった場合には、放熱中なので次の時点では85℃ぐらいになると推測できます。この例のように、現在の状態に加えて過去の状態(=元の時系列を遅らせたもの)も加味することで、系全体の状態を把握しやすくなり、次の時点の値を推測しやすくなることが知られています。
注8 独立成分分析
複数の信号が混ざったデータからできるだけ独立した成分を抽出する方法のこと。例えば複数の楽器の合奏を複数のマイクで録音したとします。各楽器の音は複数のマイクに別々の割合(混合比)で届きます。各楽器の音が(少なくとも部分的には)独立に動くと仮定することで、この混合比を推測し、各楽器の音を別々に抽出することができます。本研究では全脳神経活動を複数の信号が混ざった時系列とみなし、独立成分分析によって本質的な成分(神経活動モチーフ)を抽出しました。
注9 行列分解
データ行列を2つの行列の積に分解すること。例えば複数のユーザーが複数の映画に対してつけた評価のデータ行列があるとします。このデータを「ユーザーの好みを表す行列」と「映画の特性を表す行列」との積で近似することで、元のデータ行列を解釈しやすくなります。元のデータ行列の一部が欠けている場合には、分解後の2つの行列の積によって元のデータ行列を近似することで、欠けていた値を補完することができます。
注10 次元削減
多数の特徴を含む複雑なデータから、重要性の低い特徴を削除して、重要性の高い特徴だけを残すこと。データを簡潔に表現することで、ノイズの影響を軽減したり、モデルの性能を向上させる効果があります。本研究では、入力神経の活動の過去時系列から、標的神経の1時点先の活動を予測するのに重要な特徴だけを抽出(縮約)しました。
注11 確率的生成モデル
データが生成される過程を確率的にモデル化する統計モデルのこと。観測データの背後にある確率分布をモデル化し、その分布から新しいデータを生成することができます。本研究では、入力神経の活動の重要な特徴から標的神経の1時点先の活動を計算する際に用いました。
注12 接続の強さ
線虫C.エレガンスでは、電子顕微鏡を利用した高解像度の観察によって、全ての神経細胞に名前がつけられ、それぞれの特徴や、細胞同士の接続の情報がアトラスとして記載されています。しかし、入力神経の活動が標的神経の活動をどの程度上昇または下降させるのかという、接続の強さの情報はほとんど不明なままでした。
注13 ギャップ結合
神経細胞同士の接続の様式のひとつで、電気シナプスとも呼ばれます。イオンなどを通過させる穴を作るタンパク質を介して細胞同士が物理的に接続されていて、物質を双方向的にやり取りすることで信号を伝達していると考えられています。