2022-05-24 量子科学技術研究開発機構
発表のポイント
- 量子科学技術研究開発機構と住友重機械工業株式会社は、より高度な重粒子線がん治療を可能とするマルチイオン源の開発に世界で初めて成功。
- マルチイオン源は量子メスを構成する主要装置の1つで、膵臓がんをはじめとする難治性がんに対する治療成績の向上に期待。
- 令和4年5月23日に、マルチイオン源を報道機関向けに公開し、量子メス実証機の開発に向けた計画を説明。
概要
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構(理事長: 平野俊夫、以下「量研」という。)と住友重機械工業株式会社(代表取締役社長: 下村真司、 以下「住友重機械」という。)は、2016年から次世代重粒子線がん治療装置「量子メス」の要素技術開発を実施してきましたが、今回、現在の炭素イオンビームを用いた重粒子線治療を高度化して、ネオン、酸素、ヘリウムといった複数のイオンによるマルチイオン治療を可能とする、マルチイオン源の開発に世界で初めて成功しました。
従来の重粒子線治療装置では炭素イオンのみを用いていますが、量子メスでは細胞殺傷効果をさらに高めつつも副作用を低減するために、腫瘍の悪性度に応じて最適な種類のイオンビームを組み合わせて用いるマルチイオン治療を導入します。量研と住友重機械は、量子メスの入射器部分となるマルチイオン源を開発し、量研にある重粒子線治療装置(HIMAC)に設置しました。このイオン源は、ヘリウムからネオンまでの複数の多価イオン3)を出力するとともに、イオン種を1分以内で高速に切り替えることができます。また、普及を見据えて病院に設置できるように、永久磁石4)と半導体マイクロ波増幅器5)を採用することで小型化かつメンテナンスフリー化を実現しました。この装置の開発成功により、より効果の高い重粒子線がん治療の実現が大きく前進することとなります。
量研は、本成果によって完成したマルチイオン源をHIMACに設置・接続してマルチイオン治療の臨床研究を進めるとともに、マルチイオン源を備えた量子メス実証機を設置するための専用建屋(量子メス棟[仮称])の建設を量研千葉地区において2023年より開始する予定です。量研は、量子メスの早期の実用化を目指して着実に開発を進めていきます。
補足説明資料
(1)量子メスについて
量研の前身である放射線医学総合研究所は、1994年に世界初となる重粒子線がん治療専用装置を開発し、これまでに1万4千名を超える患者の治療を行ってきました。また、量研は、外科治療等の他のがん治療法と比べて患者への負担が軽く、免疫機能を温存する重粒子線治療を将来のがん治療の基本的手法と位置づけ、その大幅な普及・拡大等を通じて「がん死」ゼロ健康長寿社会の実現を目指しています。そのため量研は、国内外の個別の医療機関に設置可能なより小型の次世代重粒子線がん治療装置「量子メス」の研究開発を推し進めてきました。
1994年に開発した重粒子線がん治療装置(第1世代装置)は、120m×65mの大型施設であり、建設費も320億円に上るものでした。その後、重粒子線治療装置普及ための小型化研究を通じて第2及び3世代装置(60m×40m、140億円)を開発し、地域の中核となる病院へ導入できるまで装置の小型化・低コスト化に成功してきました。そして、新たに超伝導技術やレーザー加速技術を導入することにより、更なる小型化に関する研究開発を進めているところです。
こうした小型化に加え、現在、炭素イオンのみを使用する重粒子線治療より高い治療効果が期待できるマルチイオン照射法を世界に先駆けて開発・導入するなど、高性能化も図ってきました。
今般、量研と住友重機械は、このマルチイオン照射を可能とするマルチイオン源の開発に成功しました。量研は、このマルチイオン源と超伝導技術等の新技術を導入した第4世代以降の装置を、新たな重粒子線がん治療装置=『量子メス』と位置付けています。この量子メス(第4世代装置)は、従来の装置に比べ治療効果が高く、画期的な小型化(45m×34m)が実現されることから、同装置の世界的普及が促進されると期待されています。
今回のマルチイオン源の開発の成功は、この量子メスを実証する1号機の最初の一歩と言えるものです。
図1 重粒子線がん治療装置から量子メスまでの変遷。
(2)マルチイオン照射によるがん治療
上記の通り、量研が民間企業とともに2016年より開発を進めてきた量子メスでは、重粒子線治療装置の画期的な小型化を進めると同時に、原発腫瘍への治療効果の向上、再発の抑制、副作用の低減、及び治療期間の短縮等、より高いQOL(Quality of Life )の実現を目指し、マルチイオン照射技術の導入を計画しています。
重粒子線治療は膵臓など難治性のがんに対しても有効であることが認められていますが、他のがんと比べると、その治療効果は未だ十分とはいえません。難治性の原因のひとつとして、活発に増殖するがん内部にしばしば見られる低酸素領域が挙げられます。低酸素領域に存在するがん細胞は、薬物にも放射線にも耐性をもつため、再発のリスクとなることが懸念されます。
こうした低酸素領域のがん細胞に対しては、DNAに修復できないほどの致命的な損傷を与えられる(LET4)が高い)放射線が有効であることは知られていました。炭素イオンビームはX線や陽子線に比べるとLETが高いため、DNAに致命的な損傷を与えることができ、これが、重粒子線治療が難治がんにも有効性を示す理由の一つと考えられています。しかし、炭素イオンビームだけで治療する従来技術では、がんの低酸素の有無やその度合いに合わせてLETの値を制御することはできませんでした。
マルチイオン照射技術は、炭素イオンだけでなく、LETの値が異なる様々なイオンビームを用いることにより、従来の放射線治療で行われてきた線量分布だけでなく、がんの状態に合わせて、LETの値の制御することを可能とします。例えば、がん内部の低酸素領域には酸素やネオンといった炭素よりも重いイオンのビームを照射してLETを高めてがん細胞のDNAにより多くの致命的な損傷を与え、それ以外の領域は炭素イオンビームを照射することも可能となります。このように様々なイオンビームを用いるマルチイオン照射技術により、重粒子線治療の更なる向上が期待されます。
図2 膵臓がんに、炭素イオン単独で照射した場合(上段)と、ヘリウムイオン(He)、炭素イオン(C)、酸素イオン(O)のマルチイオン照射した場合(下段)の線量分布(左列)とLET分布(右列)をCT画像上に示したシミュレーション結果
がん中心に炭素よりも重い酸素を照射し、それ以外を炭素、正常組織に近い部分を軽いヘリウムで照射した場合、線量分布を最適に保ちつつ、がん中心のLETを高くし、正常組織のLETを低下させることができます。これにより、治療線量を一定に保ったまま、低酸素領域のがん細胞に対しては、線量を大幅に増加させたのと同じ効果を出すことができます。
(3)マルチイオン源の開発
マルチイオン照射を実際の治療現場で運用するためには、治療装置のイオン源には、ヘリウムからネオンまでの複数の多価イオンを治療ビーム強度で出力するだけでなく、治療時間を大きく延ばさないために、ビームとして出力するイオン種を1分以内に切り替えることが求められます。従来型のイオン源でこの条件を満たすためには、大型電磁石と大電力電源を要したため、そのサイズや装置の製作コスト、並びに運転維持の観点から既存の病院内への設置を想定している量子メスに利用することはできませんでした。そこで、量研が有するプラズマ制御技術や磁場最適化技術と、住友重機械が有する永久磁石設計・技術を組み合わせ、小型でメンテナンスフリーな医療用マルチイオン源の開発に取り組んできました。
【技術開発の内容と成果】
量研と住友重機械は、ヘリウムからネオンまでの複数の多価イオンの出力と、1分以内でのイオン種の切り替えが可能な、小型でメンテナンスフリーなECRイオン源5)(マルチイオン源)を開発するため、主として
- 永久磁石を利用することによるイオン源の小型化・省電化
- 半導体マイクロ波増幅器7)の使用によるメンテナンスフリー化
- ガスパルス法による多種イオンの高速切り替え
を実施してきました。
1.永久磁石を利用することによるイオン源の小型化・省電化
従来型イオン源では、マルチイオン治療に必要とされる多価イオン(Ne7+等)を得るためのプラズマ生成に、大型電磁石と大電力電源、並びに進行波管マイクロ波増幅器7)といった大規模・複雑・高コストな装置を必要としてきました。本開発では、永久磁石を用いた小型・省電力なイオン源の実現に向け、現在研究に用いられているイオン源を用いた実験研究を実施し、多価イオン生成に最適な磁場分布を見出すことに成功しました。そして、永久磁石の形状・配置の詳細設計、並びに製作を行い、永久磁石のみで最適化された磁場分布を得ることにも成功しました。
永久磁石を用いたことにより、イオン源本体の小型化に加えて、電磁石電源が不要となったことで、電磁石や電源用の冷却設備なども不要となりました。その結果、図3に示す通り、マルチイオン源の占有面積は、従来型に比べて1/5にまで大幅に小型化し、さらには省電力化も合わせて達成しました。
図3 従来型イオン源(左)とマルチイオン源(右)の平面図と写真
マルチイオン源では従来型に比べて1/5の床面積に縮小されました。
2.半導体マイクロ波増幅器の使用によるメンテナンスフリー化
前述の通り、従来型のイオン源では進行波管マイクロ波増幅器が使用されてきましたが、進行波管マイクロ波増幅器には高額な消耗品である電子管が使用されていることから、その運転維持費が問題となっていました。本マルチイオン源では、大電力の半導体マイクロ波増幅器を採用することにより、消耗部品が一切なくなり、メンテナンスフリー化を実現しました。
3.ガスパルス法による多種イオンの高速切り替え
マルチイオン治療では、患部に対して最適な線量・線質分布を形成するため、イオン種を次々と切り替えて照射します。治療時間短縮のため、イオン源はイオン種が短時間で切り替えられ、且つ、安定に純度の高いイオンビームを出力する性能が求められますが、このような性能を有するイオン源はこれまで存在していませんでした。そこで量研は、高速の電磁バルブを利用し、イオン生成の元となるガスをパルス化して導入するガスパルス法を世界で初めて開発し、1分以下でのイオン種の切り替えを実現しました。これらの成果を組み合わせたマルチイオン源を新たに開発し、図4に示す通り製作が完了しました。
図4完成したマルチイオン源システムのビーム輸送系(上)とイオン源本体(下)
【今後の展開】
量研では、開発に成功したマルチイオン源をまず既存のHIMACに導入し、治療室でのマルチイオン照射を実現してマルチイオン治療の臨床研究を進めると同時に、臨床運用の中でさらなるビーム強度増強などの性能向上をはかります。
また、量研では、量子メスの早期の実用化を目指して、量研千葉地区において、図5に示すマルチイオン源を備えた量子メス棟(仮称)の建設を2023年より開始する予定です。今回開発したマルチイオン源は、量子メス棟(仮称)の完成後に移設され、小型線形加速器、超伝導シンクロトロンと組み合わさり、第4世代量子メス実証機の入射器の一部として用いる予定です。
マルチイオン源導入後のHIMAC、および第4世代量子メス実証機でのマルチイオン治療の臨床実績を蓄積し、重粒子線治療の普及加速を目指します。
図5 マルチイオン源を含んだ量子メス実証機(第4世代)のレイアウト。
【用語解説】
(1)重粒子線がん治療
重粒子線がん治療は、光速の約70%まで加速した炭素イオンビームを体外から腫瘍にピンポイントで照射 し、がん細胞を殺傷させる治療法で、放射線抵抗性のがんにも高い治療効果が得られると同時に患者への負担が少なく、短期間で治療できることが特長である。
(2)量子メス
量子メスは次世代の重粒子線治療装置であり、超伝導技術やレーザー加速技術による装置の画期的な小型化と、マルチイオン治療をはじめとした治療の高度化を目指している。第4世代装置は超伝導シンクロトロンとマルチイオン治療装置を備え、さらに進んだ第5世代装置はレーザー加速装置を設備する計画である。
(3)多価イオン
中性の原子または分子から電子を剥ぎ取ることで生成される電荷を帯びた原子・分子をイオンと呼ぶが、そのうち、多くの電子が剝ぎ取られたイオンの総称。多価イオンをイオン源で生成することにより、後段の加速器において、より低い加速電場でイオンを加速することができることから、加速器の小型化・省電力化につながる。
(4)永久磁石
外部からのエネルギー供給を必要とせず、安定した磁場の発生と保持ができる物質。身近なところでは、家電製品のモーターやファンなどを回転させるために使用されている。
(5)マイクロ波増幅器
信号発生器から出力される微小なマイクロ波(周波数が300 MHzから300 GHzの電磁波)のエネルギーを、イオン源内でのプラズマ生成に必要とされるレベルまで増幅する装置。本マルチイオン源では14 GHzのマイクロ波が用いられている。進行波管増幅器では、マイクロ波増幅に電子管が利用され、電子管内において電子ビームの持つ運動エネルギーをマイクロ波エネルギーに変換することでマイクロ波増幅を行う。一方、半導体マイクロ波増幅器は、窒化ガリウム(GaN)やガリウムヒ素(GaAs)等のパワー半導体デバイスを利用して、マイクロ波を増幅する。
(6)LET(Linear Energy Transfer)
放射線が単位長さあたりに平均して失うエネルギー。放射線が細胞核サイズの局所に与えるエネルギー量の違いを表し、線質の違いを表す指標となる。X線は低LET放射線、炭素線は高LET放射線である。LETが高くなるにつれて生物効果が高まり、低LET放射線には抵抗性を示す低酸素がん細胞に対しても殺傷効果が高くなる。
(7)ECRイオン源
ECR(Electron Cyclotron Resonance)イオン源は、現状の重粒子線がん治療装置のイオン生成部に用いられている、電子サイクロトロン共鳴(ECR)という現象を利用して得られる高エネルギー電子を強い磁場によって閉じ込め、それを繰り返し利用することで中性原子を電離する装置である。イオン源内の磁場中に外部からマイクロ波を印加すると、プラズマ発生のトリガーとなる電子がイオン源内ガス分子から電離生成される。電離した電子が磁場によって閉じ込められ、マイクロ波との共鳴で繰り返し加速される。その高エネルギーの電子が、イオンや原子と衝突して電子を一個ずつはがしていき、多価イオンを生成することができる。
【本件に関する問い合わせ先】
(研究内容について)
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構 QST革新プロジェクト 量子メス研究プロジェクト
プロジェクマネージャー 白井敏之
(報道対応)
国立研究開発法人量子科学技術研究開発機構
経営企画部 広報課