がん治療法の最適化にも役立つ新しいPETの実現へ弾み
2020-10-01 量子科学技術研究開発機構
発表者:
澁谷 憲悟(東京大学 大学院総合文化研究科 広域科学専攻 助教)※全体・東大側責任者
齋藤 晴雄(東京大学 大学院総合文化研究科 附属教養教育高度化機構 教授)
錦戸 文彦(量子科学技術研究開発機構 量子医学・医療部門 放射線医学総合研究所
先進核医学基盤研究部 イメージング物理研究グループ 主任研究員)
高橋 美和子(量子科学技術研究開発機構 量子医学・医療部門 放射線医学総合研究所
先進核医学基盤研究部 イメージング物理研究グループ 主幹研究員)
山谷 泰賀(量子科学技術研究開発機構 量子医学・医療部門 放射線医学総合研究所
先進核医学基盤研究部 イメージング物理研究グループ グループリーダー)
※量研側責任者
発表のポイント:
- PET検査(注1)のときに、勝手に生成されるポジトロニウム原子(注2)に着眼し、生体組織内の酸素濃度分布を測定する方法を開発。
- ポジトロニウムのスピンがもたらす情報(注3)、すなわちポジトロニウム原子がガンマ線に変わるまでのわずかな時間差(生体中で20ナノ秒以下)を初めて生体計測に活用。
- 腫瘍分布(従来のPET像)に加え、腫瘍内の酸素濃度分布も時に撮影される。特に、悪性度の高い低酸素状態(注4)の腫瘍に対し、治療を最適化できるようになる。
発表概要:
東京大学大学院総合文化研究科(目黒区)の澁谷憲悟助教、齋藤晴雄教授は、量子科学技術研究開発機構 量子医学・医療部門 放射線医学総合研究所(千葉市稲毛区)の山谷泰賀グループリーダーらとともに、PET(陽電子断層撮像法)検査を受ける際に、受診者の体内で勝手に生成されるポジトロニウム原子を利用して、生体内で酸素が足りているところと不足しているところの分布を調べる、新しい方法を開発した。
これまでの検査では、陽電子(注5)を放出する性質をもった核種を使って合成された薬剤(糖の類似物質や抗体など)を受診者に投与してから、受診者をトンネル状にぐるりと配置したガンマ線(注6)の検出器の中に寝かせて、薬剤の動きや集まり具合を測定している。例えば、がん診断では、細胞のエネルギー源であるぶどう糖とよく似たFDGと呼ばれる薬を投与し、それを活性化したがん細胞が貪欲に取り込む様子を調べる。一方、新しい測定法では、薬剤が陽電子を放出してからポジトロニウムを経てガンマ線に変化して出てくるまでの時間差を調べる。すると、ポジトロニウムはそのスピン状態の性質から、付近の酸素濃度が高いほど早くガンマ線に変化するため、この時間差が酸素濃度を正確に反映していることが分かった。
がんが大きな塊になると、その内部では酸素が慢性的に不足した低酸素状態になることが知られており、このような低酸素領域内に生成したポジトロニウムはガンマ線に変化するまでの時間が長い。この時間差が健康な組織に比べて長すぎる場合には、病変として検知される。このような情報は、がんの悪性の度合いの判断や、がん治療法の選択に役立つ。
発表詳細:
活発な固形がんの内部では、無秩序な細胞の増殖に血管新生が追い付かず、酸素濃度の不足した「低酸素状態」を生じる。この低酸素状態に陥った細胞群は、治療抵抗性を持つ(抗がん剤、放射線治療が効きにくい)ことが知られている。そのため、より適切な診断や治療に向け、生体内の酸素濃度分布を精度よく、かつ非侵襲的に測定する方法が求められる。
従来手法には、蛍光・燐光マーカーを利用した酸素濃度測定も挙げられるが、可視光は生体自身にも吸収されるため、体表面しか計測できず定量性も低い。一方、PET等で用いるガンマ線は透過力に優れ、例えば、頭蓋骨を透過して脳の酸素状態を測定することも可能である。なお、低酸素イメージング用のPET薬剤([18F]-FMISO,[18F]-FAZA,[Cu]-ATSMなど)が知られているが、いずれも酸素濃度の多寡を相対的に示すのみで絶対値(mmHg単位)の決定は困難だった。本手法によって、ガンマ線の透過性を活かしつつ、酸素濃度の絶対値測定も可能となる。
東京大学の澁谷助教らは、溶存酸素濃度を制御した水溶液で、陽電子放出と同時にガンマ線を放出する陽電子放出核種を用いて、酸素濃度とポジトロニウムがガンマ線に変化するまでの時間の関係を精密に測定し、明瞭な直線関係を見出した。つまり、測定された時間差を細胞内酸素濃度に換算する方法論が、Y=aX+bという単純な一次式であることを示した。更に、換算で求められる酸素濃度の絶対値は、不確かさ(誤差)が5~10 mmHgであることから、例えば、肝臓の腫瘍細胞内の低酸素状態(6 mmHg前後)と健常な酸素状態(40 mmHg前後)の弁別において、十分な実用感度を持つことが分かった。
原理の概要を述べる。電子と陽電子はそれぞれが磁気を帯びた微小な「独楽(スピン)」である。電子と陽電子の独楽の向きが揃っていると、ポジトロニウムは比較的ガンマ線に変化しにくい。これに酸素分子が持つ不対電子が作用すると、独楽の向きがひっくり返ってしまうことがあり、酸素濃度が大きい場所ではポジトロニウム原子がガンマ線に変化するまでの時間が短い。この原理により、ガンマ線が放出されるまでの時間に基づき酸素濃度が分かる(9.添付資料図を参照)。
今後は、量子科学技術研究開発機構の山谷グループリーダーらが開発中のWGI(Whole Gamma Imaging)システム(注7)に本手法を実装し、「量子PET」として、がん診断に最適な陽電子放出核種の絞り込みやガンマ線検出器の開発を行いつつ、生体(小動物等)での実証試験を目指す。PETは、スピンがもたらす情報を活用する新たな段階に突入したと言える。将来的には、従来のPET検査に加えて、陽電子が放出されてからガンマ線に変化するまでの時間差を測定して酸素濃度情報を得ることにより、がんの悪性度をより高精度に鑑別し、適切な治療法を決定できるようになる。
また、本手法は使用する放射性薬剤の種類に依存しないことから、放射能の集積度合いという従来のPETとは独立して、生体内の酸素濃度分布という新情報が得られる。これまでに、PETとCTのように、異なる診断システム同士を連結して複合的な診断情報を構築する試みは多く実現されているが、本手法は同一のシステム内で複合的な診断情報を取得する斬新な試みであり、PET45年の歴史を塗り替える大きな一歩を踏み出したのである。
以上の結果は、Natureの姉妹紙 Communications Physics(電子版)にて2020年10月1日に公開される。
発表雑誌:
雑誌名:Communications Physics(2020年10月1日電子版)
論文タイトル:“Oxygen sensing ability of positronium atom for tumor hypoxia imaging”
著者:Kengo Shibuya*, Haruo Saito, Fumihiko Nishikido, Miwako Takahashi, Taiga Yamaya
DOI番号:10.1038/s42005-020-00440-z
アブストラクトURL:https://www.nature.com/articles/ s42005-020-00440-z
用語解説:
注1 PET(positron emission tomography、陽電子断層撮像法)
陽電子を放出する不安定核種でラベルしておいた薬剤(糖や抗体など)を被検者に投与し、被検者の周囲にリング状に配置した放射線検出器でガンマ線を測定することで、生体内の薬剤動態(代謝など)を追跡する核医学診断法。近年、がん検査法としてFDG-PETが普及している。
注2 ポジトロニウム原子
水素原子(陽子と電子の束縛状態)の陽子が陽電子に置き換わったエキゾチック原子。有限の時間で崩壊してガンマ線に変わる。
注3 スピンがもたらす情報
電子と陽電子はそれぞれが磁気を帯びた微小な「独楽(スピン)」である。電子と陽電子の独楽の向きが揃っていると、ポジトロニウムは比較的ガンマ線に変化しにくい。これに酸素分子が持つ不対電子が作用すると、独楽の向きがひっくり返ってしまうことがあり、酸素濃度が大きい場所ではポジトロニウム原子がガンマ線に変化するまでの時間が短い。この原理により、ガンマ線が放出されるまでの時間(1ナノ~5ナノ秒)に基づき酸素濃度が分かる(9.添付資料図を参照)。
注4 低酸素状態
がん細胞内の溶存酸素濃度が健常細胞内のそれに比べて低い状態。低酸素のがん細胞は、化学(抗がん剤)療法や放射線療法に抵抗性を示す。
注5 陽電子
不安定な核種の崩壊により生じる電子の一種。プラス電荷を持つ。マイナス電荷を持つ通常の電子とは、粒子-反粒子の関係にある。陽電子と電子が衝突すると、直ちにガンマ線に変わるか、もしくは一旦ポジトロニウム原子を形成する。
注6 ガンマ線
エネルギーの高い電磁波。波長が極めて短く、物質を透過する力が(多くの場合エックス線よりも)大きい。その検出器には密度の大きな結晶体を用いる。
注7 WGI(Whole Gamma Imaging)
「検出可能なガンマ線をすべて画像化に活用すること」を目指し開発中の、PETとコンプトンカメラを複合した新しいコンセプトの核医学イメージング法。
添付資料:
測定原理の模式図:健常細胞領域(通常酸素濃度)ではポジトロニウムが比較的早くガンマ線に変わり、がん細胞領域(低酸素濃度)では比較的遅くガンマ線に変わる。