π骨格の表面合成と化学的同定~不飽和炭素骨格を単一化学結合レベルで可視化~

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2021-06-25 理化学研究所

理化学研究所(理研)開拓研究本部Kim表面界面科学研究室のチー・ジャン基礎科学特別研究員(研究当時)、金有洙主任研究員、内山元素化学研究室の内山真伸主任研究員(研究当時)らの共同研究グループは、炭素材料の電子および光学特性を支配するπ骨格[1]を表面カップリング反応[2]によって生成し、単一化学結合レベルにおける化学的同定と結合の制御に成功しました。

本研究成果は、表面合成により新しい炭素骨格を原子精度で生成する技術と、それに伴う新炭素材料の開発に貢献するものと期待できます。

今回、共同研究グループは、銀基板表面上に末端アルキン分子を蒸着し加熱することでπ骨格を表面合成し、走査型トンネル顕微鏡(STM)[3]、走査トンネル分光(STS)[4]、先端増強ラマン散乱(TERS)[5]技術を組み合わせた手法により、サブ分子スケールにおける形状評価だけでなく、単一化学結合レベルで炭素骨格の電子状態[6]および局所的な振動モード[7]の検出に成功しました。これにより、従来のSTM観察だけでは判別できなかった未知の炭素骨格を明らかにしました。また、本手法は単一化学結合の分光情報に基づく化学的感度を持ち、炭素骨格の結合次数を決定する有望な手法であることが示されました。さらに、単一化学結合レベルでの化学的同定に基づいて、STMの探針からターゲット分子への電圧パルスを印加して結合制御を行い、脱水素化が起こることも明らかにしました。

本研究は、科学雑誌『Journal of the American Chemical Society』オンライン版(6月18日付)に掲載されました。

π骨格の表面合成と化学的同定~不飽和炭素骨格を単一化学結合レベルで可視化~

表面合成によって生成したπ骨格と単一化学結合レベルでの同定

背景

低次元(ゼロから二次元まで)の炭素ナノ構造およびナノ材料は非局在化しているπ電子が存在するため、電子および光学特性に優れています。そのため近年、グラフェン(sp2)、カルビン(sp)、グラフディンとグラフィン(sp-sp2)のような不飽和のπ電子[1]を豊富に含む炭素骨格(sp-/sp2-ハイブリッド化炭素[8])をはじめとする種々の合成炭素同素体[9]および関連の炭化水素の研究が盛んに行われています(図1)。これらの構造および特性は、spnハイブリッド化[8]によって大きく変化するため、材料の特性を調整するにはπ骨格を正確に識別し、合成中に精密に制御する必要があります。

代表的な低次元の合成炭素同素体の図

図1 代表的な低次元の合成炭素同素体

炭素骨格に不飽和のπ電子を豊富に含む合成炭素同素体として、グラフェン(sp2)、カルビン(sp)、グラフィンとグラフディン(sp-sp2)が盛んに研究されている。


表面科学の急速な進歩により、炭素ベースのナノ構造のπ骨格が作られ、研究が発展してきました。現在では、新しい炭素骨格を表面合成によって戦略的に生成できるまでになっています。特に、走査型トンネル顕微鏡(STM)および原子間力顕微鏡(AFM)[10]のような走査型プローブ顕微鏡は、サブ分子スケールで表面形状を画像化でき、豊富な骨格情報の提供が可能です。しかし、合成中のπ骨格の精密な同定と制御には、形状像の情報だけでは不十分であり、単一化学結合を同定することが非常に重要です。しかし、このような複雑な分子における単一化学結合の化学的同定は長年の課題でした。

そこで共同研究グループは、表面合成の戦略に基づき、一般的にグラフディン関連のナノ構造を生成すると考えられている末端アルキンのカップリング反応を利用して、π骨格を形成し、単一化学結合レベルで生成π骨格の可視化と同定を可能にする手法の開発と実証を試みました。

研究手法と成果

共同研究グループは、表面合成により生成したπ骨格の化学的同定を行うために、全ての実験において5K(約-268℃)に維持した極低温超高真空STMを使用しました。銀基板(Ag(111)とAg(110)単結晶基板)を清浄化した後、末端アルキンの4,4′-ジエチニル-1,1′-ビフェニル(DEBP)分子を基板表面に蒸着させました(図2左)。π骨格の表面合成(図2中)を促進するために、サンプルを特定の温度でさらに加熱した後、STMに移し測定を行いました。

STM/走査トンネル分光(STS)および先端増強ラマン散乱(TERS)技術を組み合わせることで、サブ分子スケールにおける形状評価だけでなく、正確な化学的同定(図2右)を可能にするための特徴的な電子状態および局所的な振動モードの検出を行いました。STM/STS実験には電解研磨したタングステン探針を使用し、STM-TERS実験には金探針を使用しました。

走査型トンネル顕微鏡(STM)に基づくπ骨格の表面合成と化学的同定の図

図2 走査型トンネル顕微鏡(STM)に基づくπ骨格の表面合成と化学的同定

末端アルキンの4,4′-ジエチニル-1,1′-ビフェニル(DEBP)分子をAg(111)基板上に蒸着し、さらにアニーリング法により活性化して長鎖を形成する表面カップリング反応を起こす。鎖内のπ骨格は単一化学結合レベルで局所的に同定された。


加熱の過程において末端アルキン(DEBP)は(図3左上)、表面カップリング反応を経て二量体、オリゴマー(比較的少数の重合体)、鎖状の重合体に成長します(図3左下)。生成した結合は、図3の赤と青の矢印で示される2種類に分類できます。タングステン探針を用いて詳細な鎖構造を調べ、サブ分子スケールの結合情報をSTM像から得ることができました。一定の高さモードで測定した二つの二量体のSTM像は、特徴的な分子軌道[11]の空間分布を明確に示しています。

また、これらの最低非占有分子軌道(LUMO)[11]由来の電子的な特徴は、中心におけるC (sp2) -H (σCH)由来の分子軌道の配向を明確に示しています。第一原理電子状態計算法[12]により対応する構造モデルと分子軌道の空間分布のシミュレーションを行った結果は、実験結果を再現しました。

さらに検証を重ねるため、溶液中で合成した1,3-エンイン分子をAg(111)上に蒸着しSTM観察したところ、表面合成した結合と同様の形態が観察されました(図3右)。σCHに特徴的な構造と有機合成した分子との比較により、非脱水素の直接付加反応が支持されました。以上から、新しい炭素骨格はエンインとクムレンであると結論付けました。

 LUMO由来の電子的特徴から得られるサブ分子スケールの結合情報の図

図3 LUMO由来の電子的特徴から得られるサブ分子スケールの結合情報

2種類の接続π骨格は、末端アルキンから表面カップリング反応を経て生じた。STM/STS、DFT(密度汎関数理論)シミュレーションと有機合成の組み合わせにより、特徴的な電子的特徴を同定し、新しい炭素骨格をエンインとクムレンに帰属させた。


次に、二つの生成π骨格の化学的配置を正確に決定するため、Ag(111)上の三量体上のSTM-TERS測定を行いました(図4左)。この三量体は、クムレン(上部)とエンイン(下部)の接続により構成されます。Ag(111)上のエンインとクムレンの電荷密度分布は、結合次数[13]を反映しています。エンインは連鎖でsp-spアルキニルとsp2-sp2アルケニル基から成り、クムレンはsp2-sp-sp-sp2炭素骨格と連続二重結合から成ります(図4中)。

また、ラマン散乱がほとんど観測されないサイレント領域(1800~2800cm-1)では他の官能基からの干渉を除去できるため、サイレント領域におけるラマン活性タグとしてのsp炭素のCC伸縮モードを利用し、エンインのC≡CとクムレンのC=Cに含まれるsp炭素結合を検出しました。さらに、三量体の三つのポイント(エンイン接続、中間ユニットの中心、クムレン接続)の上に探針を置いてSTM-TERS測定を行ったところ、sp炭素のCC伸縮モードはエンインとクムレン結合の両方で観測されました(図4右)。

気相中の平面エンインとクムレン二量体の計算ラマンスペクトルとの比較から、両種の相対的なピーク位置はよく一致することが分かりました。中間ユニットの中心ではいずれかのCC伸縮モードも検出されなかったことから、本手法におけるラマン信号は単一化学結合レベルの高い空間分解能を持つことが示されました。

STM-TERSスペクトルに基づく生成炭素骨格の化学配置の決定の図

図4 STM-TERSスペクトルに基づく生成炭素骨格の化学配置の決定

左:本システムのSTM-TERS測定の概略図。
中:Ag(111)上のエンインとクムレンの電荷密度分布。赤と青の矢印はそれぞれsp炭素の対応するCC伸縮モードを示す。
右:三量体の特定の位置に金探針を配置したときに収集したTERSスペクトル。ΔZは、探針高さのオフセット。露光時間はスペクトルごとに3分であった。スペクトルは明瞭にするために垂直に移動させ表示した。


以上から、STM-TERSは、形状像に加えて未知の炭素骨格における化学的な構造と配置を区別し、特定するための高感度な情報を提供することが示されました。

本手法は単一化学結合の分光情報に基づく化学的感度を持ち、結合次数を決定する有望な手法です。さらに、化学的同定に基づいてSTMの探針からターゲット分子へ電圧パルスを印加し結合制御を行い、エンイン接続における脱水素化が起こることを明らかにしました。

今後の期待

本研究では、末端アルキンの表面カップリング反応におけるπ骨格の化学的同定と結合制御を達成しました。STM/STSとTERS技術の組み合わせは、高空間分解能で形状情報と化学構造の情報を同時に提供し、不飽和炭素骨格の単一化学結合理解を可能にします。反応スキームの識別を可能にし、Ag(111)上での末端アルキンのカップリングにおける非脱水素化の直接付加反応を明らかにしました。

本研究で示した方法論は表面化学における化学配置の正確な同定と決定において非常に有用で、新しい炭素骨格を表面合成によって原子精度で生成する技術へのさらなる応用が期待できます。

補足説明

1.π電子、π骨格
分子内の隣り合った原子同士の軌道の重なりによって形成する化学結合をπ結合といい、π電子はπ結合を形成に関与する電子のこと。π骨格とはπ結合から形成される分子の骨格のこと。

2.表面カップリング反応
カップリング反応とは、二つの分子を選択的に結合させて一つの分子にする反応であり、表面カップリング反応とは基板の表面上で起こる特異なカップリング反応のことを指す。

3.走査型トンネル顕微鏡(STM)
先端を尖がらせた金属針(探針)を、試料表面をなぞるように走査して、その表面の形状を観測する顕微鏡。探針と試料間に流れるトンネル電流を検出し、その電流値を探針と試料間の距離に変換させ画像化する。STMはScanning Tunneling Microscopeの略。

4.走査トンネル分光(STS)
STMで見ている試料の所望の場所に探針を固定し、局所的な電子状態を調べる手法。フェルミ準位より上の被占有状態(伝導体)と下の占有状態(価電子帯)の両方を計測することができる。STSは Scanning Tunneling Spectroscopyの略。

5.先端増強ラマン散乱(TERS)
先端の鋭い金属製の探針の先端に光を照射すると、先端に当てた光の電場よりも非常に強い電場が生じる。この増強電場により、探針直下の物質が生じるラマン散乱を増強して測定する手法がTERSである。通常、光は回折現象により光の波長の半分以下の領域に集めることができないという限界(回折限界)があるが、TERSでは光を探針先端に集めることができ、光の回折限界を超えることができ、空間分解能は探針の先端径に依存する。TERSはTip- Enhanced Raman Spectroscopyの略。

6.電子状態
物質における電子のエネルギー構造のこと。

7.振動モード
分子内の結合の振動の状態のこと。対称伸縮や非対称伸縮などさまざまな振動の状態がある。

8.ハイブリッド化炭素、spnハイブリッド化
ハイブリット化炭素とはsp、sp2などの軌道の混合(spnハイブリッド化)により構成される骨格を持つ炭素物質のこと。

9.同素体
同じ元素の原子から構成され、原子の配列や結合様式の関係が異なる単体同士の関係をさす。同素体は同じ元素から構成されるものの、化学的・物理的性質が異なる。

10.原子間力顕微鏡(AFM)
原子間力顕微鏡は走査型プローブ顕微鏡の一種で、探針と試料表面の原子間にはたらく力(原子間力)を検出して表面形状の観察を行う顕微鏡である。

11.分子軌道、最低非占有分子軌道(LUMO)
分子軌道とは、分子中の電子の波動関数のこと。電子が占有している分子軌道のうち最もエネルギーの高い軌道を最高被占軌道(HOMO)、占有されていない分子軌道のうち最もエネルギーの低い軌道を最低空軌道(LUMO)という。

12.第一原理電子状態計算法
実験結果に頼らないで、量子力学の基本原理から分子や結晶の性質を計算する方法。実験が困難な極限状況における物質の性質を予測できるという特長がある。しかし膨大な計算を要するため、高性能のスーパーコンピュータの助けが不可欠である。

13.結合次数
結合次数とは、原子間の結合の数のこと。結合次数が2の結合を二重結合、3の結合を三重結合という。

共同研究グループ

理化学研究所 開拓研究本部
Kim表面界面科学研究室
基礎科学特別研究員(研究当時) チー・ジャン(Chi Zhang)
基礎科学特別研究員 ラファエル・ハクルビア(Rafael B. Jaculbia)
研究員 數間 惠弥子(かずま えみこ)
上級研究員 今田 裕(いまだ ひろし)
専任研究員 早澤 紀彦(はやざわ のりひこ)
主任研究員 金 有洙(きむ ゆうす)
内山元素化学研究室 (研究当時)
大学院生 田中 裕介(たなか ゆうすけ)
専任研究員 村中 厚哉(むらなか あつや)
主任研究員 内山 真伸(うちやま まさのぶ)
(現 東京大学大 学院薬学系研究科 教授)

研究支援

本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金 若手研究「Development of time resolved STM-THz-TDS system for studying the ultrafast carrier dynamics of graphene(研究代表者:Rafael B. Jaculbia)」、同基盤研究(B)「1光子検出かつ1分子感度を有する先端増強近接場分光法の開発(研究代表者:早澤紀彦)」、同基盤研究(B)「先端増強時間分解テラヘルツ顕微分光法の開拓(研究代表者:早澤紀彦)」、同基盤研究(B)「らせん構造をもつフタロシアニン系化合物の合成と機能開拓(研究代表者:村中厚哉)」、同基盤研究(S)「物質と生命を光でつなぐ分子技術の開発(研究代表者:内山真伸)」、同新学術領域研究(研究領域提案型)「理論計算を基盤とした生合成経路の探索と生合成リデザインへの挑戦(研究代表者:内山真伸)」、理化学研究所基礎科学特別研究員制度(研究代表者:Chi Zhang 、Rafael B. Jaculbia)、RIKEN’s Incentive Research Projects(研究代表者:Chi Zhang)による支援を受けて行われました。

原論文情報

Chi Zhang, Rafael B. Jaculbia, Yusuke Tanaka, Emiko Kazuma, Hiroshi Imada, Norihiko Hayazawa, Atsuya Muranaka, Masanobu Uchiyama, and Yousoo Kim, “Chemical identification and bond control of π-skeletons in a coupling reaction”, Journal of the American Chemical Society, 10.1021/jacs.1c02624

発表者

理化学研究所
開拓研究本部 Kim表面界面科学研究室
基礎科学特別研究員(研究当時) チー・ジャン(Chi Zhang)
主任研究員 金 有洙(きむ ゆうす)
内山元素化学研究室
主任研究員(研究当時) 内山 真伸(うちやま まさのぶ)

報道担当

理化学研究所 広報室 報道担当

有機化学・薬学
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