神経筋接合部の形成増強による老齢マウスの運動機能と筋力の増強
2020-08-06 東京大学医科学研究所
発表のポイント
- 我が国をはじめとする高齢化社会が克服すべき重要、かつ喫緊の課題である「加齢に伴う運動機能の低下」に対して、研究グループが本学にて開発した神経筋接合部(NMJ(注1))の形成増強治療による運動機能と筋力の増強効果を実証しました。
- 本研究では、出生後の生存率が約75%である2年齢の雄マウスを「老齢マウス」と位置づけ(概ね4匹に1匹は2歳未満で致死性を呈します*)、若齢(4ヶ月齢)の雄マウスに比べ、老齢(2年齢)の雄マウスではNMJの神経脱離(運動神経の命令を筋肉に伝えることができない状態)が増加することを確認した上で、NMJ形成増強治療がNMJの神経結合を増強し、運動機能と筋力を強化することを発見しました。
- 本研究成果は、独自に開発したNMJ形成増強治療の概念が多様な要因により惹起される加齢性の運動機能低下に有効である可能性を提示するもので、高齢化社会における生活の質の向上に資する医療技術としての発展が期待されます。
*日本人男性の75歳での生存率も同程度です。https://www.mhlw.go.jp/toukei/saikin/hw/life/life17/dl/life17-15.pdf
発表概要
私たちの運動機能には、運動神経を介した骨格筋収縮の緻密な制御が必要です。神経筋接合部(NMJ)は運動神経と骨格筋を結ぶ唯一の「絆」(神経筋シナプス)であり、その喪失は呼吸を含めた運動機能の喪失を意味します。
東京大学医科学研究所の山梨裕司教授らの研究グループは、これまでにNMJの形成に必須のタンパク質としてDok-7を、また、そのヒト遺伝子(DOK7)の遺伝病としてDOK7型筋無力症(注2)を発見しています。さらに、マウスを用いた実験から、DOK7発現ベクター(注3)の投与によりNMJ形成を後天的に増強できることを発見し、そのような「NMJ形成増強治療」がDOK7型筋無力症だけでなく、ある種の筋ジストロフィー(注4)や筋萎縮性側索硬化症(注5)を発症したマウスの運動機能を改善し、生存期間を延長することを実証していました。
今回、研究グループは、運動神経と骨格筋を結ぶNMJから運動神経が離れてしまう「神経脱離」が老化と共に進行することに着目し、NMJ形成増強治療による老齢マウスの運動機能に対する増強効果の研究を実施しました。
その結果、NMJでの運動神経脱離が進行し、運動機能が低下した老齢マウスにDOK7発現ベクターを投与することにより、1)NMJにおける運動神経結合の増強、2)運動神経刺激に対する骨格筋応答の増強、3)個体の運動機能と筋力の増強、を実証しました。
この成果は、本学で開発したNMJ形成増強治療が、多様な要因により引き起こされる加齢性の運動機能低下に有効である可能性を提示するもので、高齢化社会における生活の質の向上に資する全く新しい医療技術としての発展が期待されます。
本研究成果は2020年8月5日(米国東部夏時間)、米国科学雑誌「iScience」に掲載されました。なお、本研究は文部科学省科学研究費補助金などの助成を受け、国立長寿医療研究センターの小木曽昇博士、花王株式会社生物科学研究所の太田宣康博士らとの共同研究として実施されました。
研究グループが開発したヒトDOK7遺伝子の発現ベクター(AAV-D7)は、老齢マウスへの投与により神経筋接合部(NMJ)の形成増強を誘導すると共に、NMJにおける運動神経結合を増強し、老齢マウスの運動機能と筋力を強化する。
発表内容
私たちが呼吸をし、活動するためには、運動神経によって骨格筋収縮を緻密に、素早く制御する必要があります。この時、運動神経からの制御シグナルは神経筋接合部(NMJ)という特殊な構造(神経筋シナプス)を介して骨格筋に伝達されます(神経筋伝達)。哺乳動物のNMJはひとつの筋線維の中央部分にひとつだけ形成されるかけがえのない「絆」であり、その喪失は呼吸を含めた運動機能の喪失を意味します。研究グループは、これまでNMJの形成に必須のタンパク質としてDok-7を発見し(Science 312:1802-1805, 2006)、さらに、ヒトDOK7遺伝子の異常による潜性(劣性)遺伝病としてDOK7型筋無力症を発見し、それがNMJの形成不全病であることを解明しています(Science 313:1975-1978, 2006)。
その他にも、研究グループはDok-7がNMJの形成に必要な、筋線維に特異的に発現する受容体(受容体型チロシンキナーゼMuSK)に必須の細胞内活性化因子であることを突き止めると共に(Science Signaling 2:ra7, 2009)、DOK7発現ベクターの投与によるNMJ形成の増強が、NMJ形成不全を呈するDOK7型筋無力症やある種の筋ジストロフィー、筋萎縮性側索硬化症(ALS)のモデルマウスに有効な治療戦略(NMJ形成増強治療)になることを実証しています(Science 345:1505-1508, 2014、EMBO Mol. Med. 9:880-889, 2017)。
一方、高齢化社会の重要課題である加齢に伴う運動機能低下の要因のひとつとして、運動神経と骨格筋を結ぶNMJから運動神経が離れてしまう「神経脱離」の進行が注目されていました。今回研究グループは、老齢マウスに対するNMJ形成増強治療を実施し、運動機能の制御に必須のシナプスであるNMJが加齢に伴う運動機能低下に対する治療標的となる可能性を検討しました。
本研究では、前述の筋無力症や筋ジストロフィー、ALSのモデルマウスに対する研究と同じく、NMJの形成を人為的に増強する手法として、ヒトやマウスでの安全性と長期にわたる外来遺伝子の発現に優れたアデノ随伴ウイルス(AAV: adeno-associated virus)を用いて作出したヒトDOK7遺伝子発現ベクター(AAV-D7)を使用しました。
また、老齢マウスとしては出生後の生存率が約75%であり、NMJの神経脱離や運動機能の低下が顕著な2年齢の雄マウスを用いました。この老齢マウスにAAV-D7を投与したところ、投与4ヶ月後(2年4ヶ月齢)にはNMJにおける運動神経結合と、NMJを介した運動神経刺激に対する骨格筋の電気生理学的な応答が、投与前(2年齢の時点)に比べて増強されました。さらに、加齢に伴い低下すべきマウスの運動機能と筋力も、投与前に比して強化されることが実証されました。
本研究の成果は、研究グループが本学において創出したNMJ形成増強治療の概念が筋無力症やALSなどの疾患のみならず、高齢化社会において深刻な問題となっている加齢性の運動機能・筋力低下に有効である可能性を提示する点において大きな社会的な意義を有します。
また、本研究はAAV-D7を用いた遺伝子治療の基礎研究であるだけでなく、化合物を用いたNMJ形成増強治療にも道を拓くべき「治療概念の実証研究」としての側面を併せもちます。それ故に、加齢に伴う運動機能・筋力低下の克服に向けた橋渡し研究(注6)の推進と共に、NMJ形成増強効果をもつ化合物の開発、さらには筋肥大や運動神経保護などの、異なる作用機序をもつ薬剤との併用治療に関する研究の推進が急がれます。
発表雑誌
雑誌名:「iScience」(2020年8月5日オンライン)
https://www.cell.com/iscience/home
論文タイトル:DOK7 gene therapy enhances neuromuscular junction innervation and motor function in aged mice
著者:Ryo Ueta, Satoshi Sugita, Yoshinori Minegishi, Akira Shimotoyodome, Noriyasu Ota, Noboru Ogiso, Takahiro Eguchi and Yuji Yamanashi
DOI 番号:10.1016/j.isci.2020.101385
URL: https://doi.org/10.1016/j.isci.2020.101385
問い合わせ先
〈研究内容について〉
東京大学医科学研究所腫瘍抑制分野
教授 山梨 裕司(やまなし ゆうじ)
〈報道について〉
東京大学医科学研究所 国際学術連携室(広報)
用語解説
(注1)神経筋接合部:運動神経からの制御シグナルを骨格筋(筋線維)に伝える唯一の化学シナプスであり、NMJ(neuromuscular junction)とも呼ばれます。ヒトを含む哺乳動物では原則として各筋線維の中央部にひとつだけ形成され、運動神経の軸索末端(前シナプス)から放出されるアセチルコリンが筋線維の後シナプス部位に凝集しているアセチルコリン受容体を刺激することで骨格筋の収縮が誘導されます(模式図:下段、左側の図を参照)。
(注2)DOK7型筋無力症:筋無力症は神経筋接合部の異常が直接の原因となって発症する神経筋疾患の総称で、易疲労性の筋力低下を特徴とし、重篤例では呼吸不全により死に至ります。研究グループが発見したDOK7型筋無力症は先天性筋無力症候群に分類される潜性(劣性)遺伝病であり、神経筋接合部の大きさが健常者の半分程度に小さくなる神経筋接合部の形成不全による疾患です。
(注3)ベクター:遺伝子を用いた治療法においては、標的とする細胞・組織に特定の遺伝子を発現させるもの(運搬体)を意味します。本研究ではアデノ随伴ウイルスがDOK7遺伝子を発現させるための運搬体として使われており、それ故、ベクターとして扱われます。
(注4)筋ジストロフィー:骨格筋の変性・壊死による運動機能低下が特徴の遺伝性疾患です。骨格筋に発現する遺伝子の変異・発現調節異常により筋細胞の機能が障害されて惹起されると考えられており、50以上の原因遺伝子が解明されています。
(注5)筋萎縮性側索硬化症(ALS;Amyotrophic Lateral Sclerosis):様々な要因によって発症する、上位運動ニューロンと下位運動ニューロンに選択的な神経変性疾患(運動神経変性疾患)であり、運動機能の低下と筋萎縮を特徴とし、約半数は発症後数年で主に呼吸筋麻痺により死亡する重篤な疾患です。
(注6)橋渡し研究:トランスレーショナルリサーチとも呼ばれ、本研究のように、「神経筋接合部の形成機構の解明」という基礎研究そのものでもなく、また、「神経筋疾患の治療」という典型的な臨床研究でもなく、その両者をむすぶ研究を意味します。