「代謝経済学」によるがん細胞の代謝戦略の解明~代謝のワールブルク効果のメカニズムを 経済学のギッフェン財との対応から解き明かす~

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2021-11-01 東京大学

発表者

山岸 純平(東京大学 大学院総合文化研究科 広域科学専攻 博士課程1年)
畠山 哲央(東京大学 大学院総合文化研究科 広域科学専攻 助教)

発表のポイント

  • がん細胞などは、ワールブルク効果(注1)と呼ばれる、エネルギー生成効率の低い代謝経路を主に用いるという一見不合理な挙動を普遍的に示すが、その要因については様々な仮説が提唱されており、未だに決着がついていない。
  • 細胞内代謝系のふるまいを、ミクロ経済学における消費者行動の理論の視点から捉えることで、ワールブルク効果についての既存の仮説をひとつの数理モデルに統合できることを示した。
  • さらに、経済学におけるギッフェン財(注2)との数理的対応を見出すことで、薬剤添加やミトコンドリア損傷への応答を新規に予測し、経済学の知見を用いて代謝応答の体系的な予測や制御を行う「代謝経済学」という新たな学術分野への道を拓いた。

発表概要

急速に増殖する生物は、進化の過程で増殖速度を最大化するよう、遺伝子発現や代謝戦略を最適化していると考えられています。一方、ミクロ経済学においては、消費者や企業などの経済主体が自分自身の利得を合理的に最大化するよう行動するという仮定の下、理論が発展してきました。そのため、生物を合理的であるとみなすことで、経済学を生命現象に適用できるのではないかという議論が古くからなされてきました。しかし、これまでの議論はどれも、漠然とした比喩・アナロジーにとどまっており、生命現象に対する新たな示唆を与えるとは言い難いものでした。
東京大学大学院総合文化研究科の山岸純平大学院生と畠山哲央助教は、細胞の代謝系とミクロ経済学の間の厳密な数理的対応を初めて発見しました。山岸と畠山は、がん細胞などが、エネルギー生成効率の低い代謝経路を主に用いるという、ワールブルク効果と呼ばれる一見不合理な挙動を普遍的に示すことに着目し、経済学との対応を探りました。ワールブルク効果は五十年以上前に発見され、それ以来さまざまな仮説が提案されてきましたが、経済学との対応から既存の仮説をひとつのミニマルな数理モデルに統合できたことで、原理や必要条件を明らかにできました。さらに、このワールブルク効果が、ミクロ経済学における、価格が上がるほど需要が増すという反直感的な振る舞いを示すギッフェン財と関係することを見出しました。このギッフェン財との対応関係から、薬剤の添加やミトコンドリアの損傷に対するがん細胞の代謝応答について、これまでの実験結果と整合的な、新たな予測を導くことができました。また、実際の経済におけるギッフェン財の実在は百年以上も謎とされてきましたが、今回の研究で、代謝系においては遍在していることもわかりました。
本研究成果は、言わば「がん細胞は合理的な消費者である」ことを示したもので、「代謝経済学」とでも呼ぶべき新たな学術分野への道を切り拓く第一歩と言えます。今後、代謝経済学の発展により、がん細胞だけでなく、免疫細胞や産業的に有用な微生物などの代謝応答の予測、そして制御を可能とする、細胞内代謝系についての体系的な理論をもたらすことが期待されます。
本研究は科学研究費助成事業「若手研究(課題番号:JP21K15048)」、「特別研究員奨励費(課題番号:JP21J22920)」のもとで行われました。

発表内容

近年のシステム生物学・代謝工学の発展により、進化を経た単細胞生物の代謝系は、増殖速度やバイオマス生成効率を最大化するよう最適制御されているということが明らかになってきました。しかし、何千ものパラメータを持つ工学的モデルからは、細胞・代謝系のふるまいを人間が理解するのは困難であり、既存の理論では説明しきれない代謝挙動も数多く観測されています。一方、ミクロ経済学とは、「経済主体は利得(効用)を最大化するようにふるまう」という仮定にもとづき、消費者や企業の行動を説明・予測するための理論です。しかし、実際の人間はしばしば非合理的であり、人間の取りうる行動全体の集合や利得の関数形は事実上知りえません。そのため、ミクロ経済学の理論がもたらす予測の定量的な実験による検証や、実際の経済現象への適用は限定的です。
山岸と畠山は、生物学と経済学の間に成立する上記の最適化問題としてのアナロジーを踏まえ、ミクロ経済学における消費者行動の理論と細胞内の代謝制御の間の厳密な対応関係を見出しました(図1)。細胞内の代謝ダイナミクスの理解に経済学を応用することで、代謝系の制御を説明する上で従来用いられてきた多数の変数の最適化問題とは異なり、少数変数で記述され細部に依らない普遍的な数理モデルを構築できます。このような理論は、生命現象を人間が「理解」するためには不可欠であり、また実験に対しても新たな視点から予測を与えられます。たとえば、商品の価格を「貨幣から財への変換の非効率性」と捉えることで、栄養を代謝する経路の非効率性を代謝経路の「価格」と解釈できます。この対応関係から代謝反応の阻害剤への応答を理論的に説明・予測できます。

「代謝経済学」によるがん細胞の代謝戦略の解明~代謝のワールブルク効果のメカニズムを 経済学のギッフェン財との対応から解き明かす~
図1:ミクロ経済学と代謝系の対応関係

本研究では特に、ワールブルク効果とギッフェン財に着目しました。ワールブルク効果とは、増殖細胞が、酸素が豊富にある環境においても、エネルギー生産効率の高い好気性呼吸ではなく発酵/嫌気性呼吸を用いるという、一見非合理的なふるまいです。大腸菌や酵母などの微生物からがん細胞や免疫細胞まで、増殖細胞において普遍的に見られる現象で、がん治療の創薬ターゲットとしても注目されています。一方のギッフェン財とは、価格が上がると需要が増すという半直感的な商品です。上記の生物学と経済学の間の数理的対応により、生物学・医学において五十年以上謎とされてきたワールブルク効果について、図2のような効用地形が得られ、この現象の普遍的な数理構造と原理、さらには必要条件を導くことができました。加えて、ワールブルク効果における呼吸経路が、ミクロ経済学におけるギッフェン財の性質を持つことを見出しました。それにより、がん治療のターゲットとしても近年注目されている、呼吸の阻害剤やミトコンドリア損傷で呼吸の効率が低下した際に、がん細胞が逆に呼吸を活発に用いるようになるという「逆ワールブルク効果」と呼ばれる現象について、ギッフェン財の性質との対応からよく説明できることを示しました。さらに、呼吸の効率があるところまで低下すると、代謝状態が不連続的に変化するという新たな予測をも、理論的に得ることができました。また、実際の経済におけるギッフェン財の具体例はほとんど見つかっておらず、その実在や原理は百年以上前から論争の的となってきましたが、今回の研究で、代謝系においてはギッフェン財が遍在していることもわかりました。


図2:ワールブルク効果の効用地形

左:呼吸および発酵/嫌気性呼吸の代謝流量(フラックス)を変化させたときの増殖速度の3次元プロットで、高さが増殖速度に対応する。
右:増殖速度の2次元プロット。黒線は増殖速度の等高線で、経済学では無差別曲線と呼ばれる。赤線は取り込んだ栄養を分配できる限界を表す直線で、経済学では予算制約線と呼ばれる。点線は増殖速度の地形の稜線。

本研究成果は、「代謝経済学」とでも呼ぶべき新たな学術分野への道を切り拓く第一歩です。この代謝経済学が理論と実験の両面で発展することにより、がん細胞や免疫系、微生物などの栄養環境や薬剤投与などに対する「代謝応答の予測、そして制御を可能にする一般理論」が確立できると考えられ、がんや免疫疾患における創薬ターゲットや副作用を理論的に予測・提案するといった医療分野への貢献も期待されます。逆に、生物の代謝系において観察される現象を理論化することで、経済学における新規理論が得られることも期待されます。

用語説明

(注1)ワールブルク効果:
酸素存在下でも、ATP生成効率の高い好気性呼吸ではなく非効率的な嫌気性呼吸(あるいは発酵)を行うという現象のこと。がん細胞・免疫細胞・幹細胞から大腸菌や酵母まで様々な種類の増殖細胞において普遍的に見られ、オーバーフロー代謝とも呼ばれる。
(注2)ギッフェン財:
価格が上がると需要も増加し、所得が増えると需要は減るという商品のこと。需要の基本法則(通常の商品は価格が上がると需要が減るという経験則)に反しているため、しばしばギッフェンのパラドクスとも呼ばれる。

論文情報

Jumpei F. Yamagishi, Tetsuhiro S. Hatakeyama*, “Microeconomics of Metabolism: The Warburg Effect as Giffen Behaviour,” Bulletin of Mathematical Biology: 2021年10月31日, doi:10.1007/s11538-021-00952-x.
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