2023-08-30 量子科学技術研究開発機構
ポイント
- 重粒子線がん治療装置を小型化する“量子メス”実現のための新型イオン入射装置の原型機が完成
- 産官学連携で開発した技術を統合し、レーザー・プラズマ加速を用いたレーザー駆動イオン入射装置を社会実装へ
- 原型機を用いた統合試験の開始で量子メス実現に向けた設計が大きく前進
概要
量子科学技術研究開発機構(理事長 小安重夫、以下「QST」)量子技術基盤研究部門関西光量子科学研究所(以下「関西研」)量子応用光学研究部、QST革新プロジェクト・量子メスプロジェクトの榊泰直上席研究員(九州大学 大学院総合理工学研究院 連携講座 教授を兼任)、小島完興主任研究員らは、住友重機械工業株式会社(代表取締役社長 下村真司)、日立造船株式会社(取締役社長兼CEO 三野禎男)との共同研究にて、レーザー・プラズマ加速を用いたレーザー駆動イオン入射装置の原型機を世界で初めて開発し、小型重粒子がん治療装置“量子メス”の実現に向けた統合試験を開始した。
重粒子線がん治療では、身体の深部にあるがん細胞に炭素イオンを照射して死滅させる。そのために炭素イオンを光の速度の約73 %にまで加速する必要があるが、大規模な加速装置や専用建屋が必要となることから普及が進まなかった。そこで、2016年からQSTでは、QSTに既存する装置(重粒子線がん治療装置 HIMAC)を約1/40(面積比)に小型化する“量子メス”と呼ばれる次世代重粒子線がん治療装置の開発を産官学連携で進め、2030年の実用化を目指している。量子メスに導入される革新的な2大技術の1つである超伝導技術を利用したシンクロトロンは、すでに実証機の製作段階にある。2大技術のもう1つ、レーザー・プラズマ加速を用いた新型イオン入射装置の開発を、QST関西研が主体となって進めている。今回、連携企業等との共同で「レーザー装置」「イオン加速部分」「イオン輸送部分」の3つの要素を統合し、レーザー駆動イオン入射装置の原型機を完成した。今後の統合試験を通じて、実証機製作に必要なデータが集まることが期待され、量子メス開発はいよいよ最終形の設計に向け大きく前進する。
本研究成果は令和5年8月29日から9月1日に日本大学理工学部船橋キャンパスにて開催される第20回加速器学会年会にて発表の予定。本研究は、科学技術振興機構(JST)未来社会創造事業大規模プロジェクト型「レーザー駆動による量子ビーム加速器の開発と実証」(JPMJMI17A1)の支援を受けて行われた。
研究の背景
世界のがん患者数は、今後20年間で年間2,200万人に増加すると予測されており、日本においても1981年以降、疾病別の死亡率でがんが死因の第1位となっている。現在、日本では毎年約100万人のがん患者が新たに発生し、毎年30万人以上ががんで亡くなっている。日本におけるがんの生涯リスクは、男性で65 %、女性で50 %と推定されており、がんの診断や治療に関する研究開発は日本の重要な課題である。このような社会的背景の中で重粒子線がん治療1)は、患者の身体に与える負担が小さく、治癒後の社会復帰が容易であるため、QOL(Quality of Life:生活の質)の観点から近年、注目を集めている。
日本では1994年に、QST2)の前身の1つである放射線医学総合研究所(NIRS)において、世界初の重粒子線がん治療装置(HIMAC)が稼働した。現在、国内では7箇所(千葉、兵庫、群馬、佐賀、神奈川、大阪、山形)で重粒子線がん治療装置が稼働中であり、これはアメリカ、ドイツ、中国などを超えて世界一の稼働台数である。しかしながら、国内7施設を合わせても1年で治療を受けられる患者数は4,000人程度に限られており、これは日本で新たに見つかるがん患者の0.4 %程度にすぎない。そのため今後、治療装置の小型化による全国的な普及が不可欠であると考えられている。HIMACの稼働後、QSTの技術開発により、現在は普及型と呼ばれる小型化された装置が導入可能になっているが、いまだに加速器のための建屋(60 m×45 m程度)を新たに建設する必要が生じるため、普及の障害となっている。この状況を打破すべく、QSTでは2016年の機構発足から、QSTに既存する装置を約1/40(面積比)に小型化する”量子メス3)”と呼ばれる次世代小型重粒子線がん治療装置の開発プロジェクトを推進している。これが実現できれば既設の建物内に設置可能になるので建屋の建設費を抑えることが可能になる。量子メスの開発が完了し、低侵襲的な(身体を傷つけない)がん治療が広く普及すれば、現役世代に向けてはライフサイクルを乱さない日帰りがん治療が、高齢世代に向けては術後の体力回復に依存しないがん治療が、より一般的に提供可能になると期待される。
一般的な重粒子線がん治療装置は、炭素イオンを加速する2つの加速器で構成される。1つ目は、炭素イオンを発生させ、光の速度の約9 %にまで予備的に加速する“イオン入射装置4)”であり、2つ目は、イオン入射装置で生成された炭素イオンを人の体内にあるがん細胞にまで届けるために必要な速度(炭素イオンで光の速度の約73 %)にまで加速する“シンクロトロン5)”である。次世代型の重粒子線がん治療装置である“量子メス”開発プロジェクトでは、これら両方の加速器にそれぞれ新しい技術を導入することで、装置の小型化と高度化を図る計画である(図1)。今回のプレスリリースは、1つ目の加速器に相当するイオン入射装置の新技術に関するものである。
図1 QSTが開発を進めている次世代型の小型重粒子線がん治療装置“量子メス”
次に、イオン入射装置の小型化に重要な役割を果たす、レーザー光によるイオンの加速現象について説明する。高い出力のレーザー光を時間・空間的に集めて(1018 W/cm2以上)、わずか数ミクロン程度の厚さの標的薄膜に照射すると、薄膜を構成する原子がイオン化すると同時に瞬時に加速され、まるで弾丸のように飛び出してくる“イオン加速現象”(レーザー・プラズマ加速)が2000年に報告された。このイオン加速の起源は、レーザー光が標的薄膜上にごくわずかな時間だけ生成する強烈な加速電場にある。レーザー光が生み出す加速電場の強度は、既存の加速器で用いられる電場強度と比較して数百万倍の強さに相当し、既存の加速器で15 m必要であった加速距離が、レーザーイオン加速では数百万分の1程度(数ミクロンに相当)と桁違いに短縮される。そのため、イオン加速部分以外の装置(レーザー装置や発生した高速イオンを伝送する装置など)を小さく作ることができれば、装置全体の大幅な小型化につながる。
研究のポイント
レーザーイオン加速は、2000年に本格的な実験結果の報告がなされて以降、世界中で学術研究が進められてきた。しかしながら、この技術を社会的用途がある装置に実装する試みはなされてこなかった。このような背景の中で、QSTの前身の1つである日本原子力研究開発機構(JAEA)の関西研が中心となり、レーザーイオン加速を世界に先駆けて加速器として実用化し、実用化された加速器を社会実装することを目指した研究開発を長年進めてきた。
2016年にQSTが発足して以降、レーザーイオン加速を活用したレーザー駆動イオン入射装置を重粒子線がん治療装置の小型化を実現するキーデバイスと位置づけ、住友重機械工業株式会社および日立造船株式会社とも共同して研究開発を進めてきた。これまでは、レーザー加速に必要なレーザー光を発生する「レーザー装置」に加え、レーザー光を標的に照射してイオンを加速する「イオン加速部分」と、発生したイオンビームを制御しながらシンクロトロンへ輸送する「イオン輸送部分」の2つの装置をそれぞれ個別に開発してきた。この度、それらの要素技術を企業と共同で統合し、世界初のレーザー駆動イオン入射装置の原型機を完成させた。
共同研究の協力体制
レーザー駆動イオン入射装置の原型機の構築には、「レーザー装置」に加えて「イオン加速部分」と「イオン輸送部分」の3つの装置を開発する必要があった。QSTは、イオン加速部分とイオン輸送部分に関連する高い技術を有する企業との協力体制を築き、レーザー装置を含めて研究開発を推進してきた。
イオン加速部分に関しては日立造船株式会社との共同研究を進めている。日立造船株式会社が有する機能性薄膜を連続生成可能な高い成膜加工技術と、QSTが研究開発してきた高純度炭素イオン発生のための標的技術を組み合わせることで、標的薄膜を安定かつ連続的に供給されるような技術を共同開発した。また、標的薄膜を急速に加熱することで表面に吸着する汚染物質を除去する加熱システムを共同開発した。
イオン輸送部分に関しては住友重機械工業株式会社との共同研究を進めている。住友重機械工業株式会社が有する従来方式の小型イオン加速器に関する高い技術と、QSTが有するレーザー駆動炭素イオンビーム技術を組み合わせることで、効率的なイオン輸送システムを共同開発した。イオン輸送システムの構築に必要な電磁石群は、理化学研究所の協力により、SPring-8の線型加速器部分に利用されていた電磁石群をQST関西研・木津地区(京都府木津川市)に移設し、適切に再配置することで開発時間の短縮化、低コスト化を実現した。
QST関西研・木津地区において、2023年3月までにレーザー駆動イオン入射装置の原型機の組み上げが終わり、2023年6月から、世界に先駆けて原型機の統合試験を開始した。
図2 統合試験が開始されたレーザー駆動イオン入射装置の原型機(QST関西研・木津地区)
今後の展開
今回、稼働したレーザー駆動イオン入射装置の原型機を使い、レーザー装置、イオン加速部分、イオン輸送部分をそれぞれ最適化することで、量子メスに搭載する最終的なイオン入射装置のデザインを進める。コンピュータシミュレーションで多くの物理現象を正確に予測可能になってきたが、現時点でレーザーイオン加速を活用したレーザー駆動イオン入射装置の全ての物理過程を予測できるシミュレータは存在しない。そのため、レーザ―駆動イオン入射装置の各要素の最適化には、今回稼働した原型機から得られるデータが欠かせない。また並行して全物理工程を計算できる統合シミュレータの開発も開始している。今後3年間をめどに、実験データとシミュレーション結果の両面から、最終的な量子メスのデザインを確定する予定であり、量子メス開発はいよいよ最終形の設計に向け大きく前進する。
用語解説
1)重粒子線がん治療
炭素イオンビームを用いてがん細胞を死滅させる放射線治療。炭素イオンビームは鋭いブラッグピークと、少ない内部散乱の特徴を持ち、腫瘍への高い線量集中性を持っている。これによって正常組織へのダメージが少なく、より多くのがんを極めて短期間で治療でき、高いQOL(Quality of Life:生活の質)の観点から近年、注目を集めている。
2)QST
2016年に放射線医学総合研究所(NIRS)と、日本原子力研究開発機構(JAEA)が担っていた一部の業務を統合して「国立研究開発法人 量子科学技術研究開発機構(QST)」が新たに設立された。QSTは、重粒子線がん治療や標的アイソトープ治療などの研究・臨床実績と、粒子加速器やレーザー技術などの先端量子科学技術、超伝導体などの先端材料技術の研究開発力を持つ組織である。
3)量子メス
QSTでは「がん死ゼロ健康長寿社会」の実現に向けた研究プロジェクトを進めている。この目標を実現するためにプロジェクトの中核となるのが、高い治療効果が明らかになっている重粒子線がん治療装置の高性能化・小型化を目指す“量子メス”プロジェクトである。
4)イオン入射装置
イオン入射装置は、炭素イオンをシンクロトロンへ入射するために必要なエネルギーまで予備的に加速する装置で、従来のシステムでは、イオン源と線型加速器で構成される。イオン源はメタンガスから炭素イオンを作り出す。線型加速器はRFQライナックとAPF IH-DTLから構成され、高周波電圧により炭素イオンを光の速度の約9 %にまで加速する。
5) シンクロトロン
シンクロトロンは炭素イオンを円形軌道上で数百万回/秒、周回させて治療に必要なエネルギーまで高周波で加速する装置である。加速された炭素イオンの速度は最大で光速の約70 %に到達する。