2024-01-23 東京大学
松本 朱加(生物科学専攻 博士課程)
豊島 有(生物科学専攻 准教授)
張 晨祺(化学専攻 博士課程)
磯崎 瑛宏((現)立命館大学 准教授/(元)化学専攻 特任准教授)
合田 圭介(化学専攻 教授)
飯野 雄一(生物科学専攻 教授)
発表のポイント
- 線虫という動物は目的地に向かって進行方向を緩やかにカーブさせる風見鶏機構と呼ばれる行動のしくみを持っています。本研究では風見鶏機構を実現するために必要な、周囲の環境の情報を表現する神経を見つけました。
- 鼻先の一点にしか塩を感知するセンサーを持っていない線虫がどのように自分の好きな塩濃度に向かってカーブできるのかはわかっていませんでしたが、本研究から線虫の首の運動神経の中に周囲の濃度勾配の情報が表現されており、さらにその神経が進行方向を好ましい方向に調節するように首の動きを制御することがわかりました。
- 生存に適した環境に向かうナビゲーション行動は多くの動物で見られますが、その制御機構には不明な点が多く残っています。本研究で明らかにされた、ひとつの神経が感覚情報と運動情報と統合して進行方向を制御する行動戦略は、他の動物でも保存されている機構かもしれず、ナビゲーション行動の制御機構の理解に貢献するものです。
SMBD神経の中で濃度勾配の情報が表現され、線虫は好きな濃度に向かって
進行方向を緩やかにカーブさせることができます。
発表概要
東京大学大学院理学系研究科の松本朱加大学院生、飯野雄一教授らによる研究グループは、線虫(注1)の一つの運動神経が塩濃度低下の情報と自身のもつ運動情報を統合すること、またこの情報統合によって線虫の進行方向が好ましい方向へ曲がるように首の動きが調節されることを見つけました。
本研究では独自に開発した実験装置を用いることで、線虫の首の運動神経(注2)であるSMBDという神経が塩濃度の情報と首の運動の情報を統合する様子を世界で初めて観測しました。SMBD神経の活動は首の動きと強く相関(注3)して変動すること、さらに首が腹側に曲がって活動が上昇している最中という特定の位相(注4)でのみ、塩濃度低下後に活動がさらに上昇することを見つけました(図1)。さらにシミュレーションなどの検証結果から、塩濃度低下によるSMBD神経の活動の上昇によって首の動きが調節され、その結果線虫の進行方向を好ましい方向へカーブさせることができることを明らかにしました。
図1:SMBD運動神経の塩濃度低下に対する応答
SMBD運動神経の活動は首の動きと強く相関して変動します(左)。そして首が腹側に曲がりつつあり活動が上昇している最中という特定の位相でのみ塩濃度低下刺激に応じて活性化します(中、右)。
発表内容
餌や安全な場所を探すといったナビゲーション行動(注5)は多くの動物で見られます。目的の環境へ向かうためには周囲の環境の情報だけでなく自分がどのように動いているのかを把握する必要があります。環境の情報と運動の情報の処理メカニズムはナビゲーション行動において非常に重要なものですが、脳などの神経系でどのように情報が処理されているのかについては、わからない点が多く残っています。
線虫は体長1㎜ほどの生物で、神経系はおよそ300個の神経細胞からなる単純なものですが、餌とともに経験した塩濃度に誘引される塩濃度走性というナビゲーション行動を示します。線虫は鼻先の一点でしか塩を感知できないため、自分の周りの濃度勾配がどうなっているのかを動かないでいるときには知ることができません。それにも関わらず、先行研究から線虫には目的の濃度に向かって進行方向を緩やかにカーブさせる風見鶏機構と呼ばれる行動戦略があることがわかっていました。
線虫は首を振って進むため、例えば左側の方が塩濃度が低い場合には左側に首を振ると塩濃度低下を感知します。そのため、もし線虫が左側に首を曲げているという運動情報と塩濃度が低下したという感覚情報を統合することができれば、左側の方が濃度が低いことを把握することができます。そのときに右側に強く首を曲げるように運動神経が首の動きを制御すれば、進行方向は濃度が高い右側に曲がります。このように、感覚情報と運動情報の統合と首の運動の制御によって風見鶏機構は実現されると考えられますが、実際の神経系でどのように情報が処理されているのかわかっていませんでした。
本研究チームは先行研究をもとに、動いている線虫に塩濃度変化を与えることができる微小流路(注6)を開発しました。開発した微小流路を用いて神経活動を計測し、塩濃度変化という感覚情報と首の動きという運動情報、そして神経活動の関係を調べました。
その結果、線虫の背側の首の筋肉につながっているSMBDという運動神経が重要なはたらきをすることがわかりました。SMBD神経の活動は、首の動きと強く相関すること(図1左)、さらに首が腹側に曲がって活動が上昇している最中という特定の位相でのみ、SMBD神経は塩濃度低下に対して活動をさらに上昇させることを発見しました(図1中、右)。そこで、SMBD神経を人為的に活性化させる実験をおこなったところ、腹側に曲がりつつあるときにSMBD神経を強く活性化させると、それ以上の腹側への首の曲がりが浅くなり、早く反対側に首が曲がることがわかりました(図2A1, A2)。このように、SMBD神経は腹側に曲がりつつあるときにのみ塩濃度低下に対して活性化することで「腹側の方が塩濃度が低い」ということを検出します。そしてそれ以上腹側に首が曲がることを抑えることで、塩濃度が低い方向に進まないように進行方向を調節していることがわかりました(図2B)。
哺乳類などのより複雑な神経系をもつ高等動物 でも感覚情報と運動情報の両方に応答する神経が見つかっています。このことから、本研究から明らかにされた、運動を制御する神経が特定の位相でのみ感覚情報に応答することで、ナビゲーション行動を制御するという本研究が明らかにしたメカニズムは、ナビゲーション行動の基盤に近いものである可能性があります。本研究の成果は、さまざまな生物の神経回路内で行われている情報処理の機構の解明に貢献するものと期待されます。
図2:塩濃度低下に対するSMBD神経の活性化による首の動きの制御
塩濃度低下刺激によってSMBD神経が活性化する(A1)と、それまで腹側に曲がりつつあった首はそれ以上の腹側への曲がりが浅くなり早く背側に曲がります(A2;刺激ありは0秒で塩濃度低下刺激を与え、刺激なしは低下刺激を与えていない)。検証実験の結果を合わせると、首が腹側に曲がりつつあるときに塩濃度低下を感知すると、SMBD神経の活動はより強く上昇し、それ以上の腹側への首の曲がりを浅くして早く反対側に首を曲げさせることがわかりました(B)。
〇関連情報:
「線虫の記憶の全貌:濃さの記憶を担うタンパク質とその情報を読みだす新たな仕組みの発見」(2022/6/1)
「困ったときは兄弟に― 学習行動を制御するタンパク質をよく似たタンパク質がサポートする ―」(2021/12/28)
「進むべきか戻るべきか?-過去の経験を基にして行動を逆転させる機構の解明-」(2021/5/26)
論文情報
- 雑誌名
Proceedings of the National Academy of Sciences of the United States of America論文タイトル
Neuronal sensorimotor integration guiding salt concentration navigation in Caenorhabditis elegans著者
Ayaka Matsumoto, Yu Toyoshima, Chenqi Zhang, Akihiro Isozaki, Keisuke Goda and Yuichi IinoDOI番号
10.1073/pnas.2310735121
研究助成
本研究は、科研費「行動スイッチを引き起こす分子と神経回路の完全解明(課題番号:JP17H06113)」、「環境感知による忌避行動発現機構の統合的理解(課題番号:JP22H00416)」、「線虫を用いた強化学習の試み(課題番号:JP20K21805)」、「ニューラルネットワークによる神経ネットワークの動作原理の解明(課題番号:JP19H04980)」、CREST「高速・高次元閉ループ光計測技術の確立と神経科学への応用(課題番号:JPMJCR22N4)」、PRESTO「線虫全神経の1細胞遺伝子発現解析と活動計測(課題番号:JPMJPR1947)」、「空間情報の処理を担う神経ネットワークの動作原理の解明(課題番号:JP26830006)」、「線虫の塩走性行動における時間的多重化の 4Dイメージング解析(課題番号:JP18K14848)」、「神経回路における多重情報コードの情報物理学的解析(課題番号:JP22H04838)」、「線虫の塩走性行動の包括的理解に向けた全中枢神経活動と行動の高精度同時計測 (課題番号:JP17H05970)」、「ナビ行動を生み出す神経情報処理の自由行動4Dイメージングによる解析(課題番号:JP19H04928)」、文部科学省「ナノテクノロジープラットフォーム」事業(課題番号:JPMXP09F19UT0122、JPMXP09F20UT0123)、「パンパシフィック・セレンディピティラボ (課題番号:JPJSCCA20190007)」の支援により実施されました。
用語解説
注1 線虫
正式な学名は「Caenorhabditis elegans」といって、「線形動物」と呼ばれる動物の仲間です。成虫の体長が約1㎜の非寄生性の線形動物で、自然界では土壌や腐った果物の中などに生息しています。全ての神経細胞とその接続が明らかになっていることや、体が透明であり神経活動の計測が容易であるなどの利点から、モデル生物として多くの研究に用いられています。
注2 運動神経
筋肉の活動を制御し運動を調節する神経です。線虫は、体の右側か左側の側面を地面に接し、背側と腹側に首を振って移動するのですが、背側と腹側にそれぞれ運動神経が存在して筋肉を制御しています。
注3 相関
一方の値が増えるともう一方の値も増えるといった、二つのデータの値が規則的な関係を保って変動することです。
注4 位相
周期的に変化するものが一周期の内のどのタイミングにいるかを示す値のことです。
注5 ナビゲーション行動
餌や安全な場所に到達するために、目的地に向かって進行方向を制御しつつ進んでいく、多くの動物で見られる行動です。
注6 微小流路
基板に1 mmに満たないようなマイクロスケールの細い溝が形成されたものです。微小流路の中では液体どうしは混ざらずまっすぐ流れるという特徴があります。