2020-03-23 産業技術総合研究所
ポイント
- ドーピング検査を行う分析機器の校正に必要な認証標準物質を開発し、供給を開始
- 定量核磁気共鳴分光法などを利用して信頼性の高い認証値(標準液の濃度)を付与
- オリンピックやパラリンピックなどにおける公正さを計量学的に支援
概要
国立研究開発法人 産業技術総合研究所【理事長 中鉢 良治】(以下「産総研」という)計量標準総合センター 物質計測標準研究部門【研究部門長 高津 章子】有機基準物質研究グループ 山﨑 太一 主任研究員、黒江 美穂 研究員、清水 由隆 主任研究員、斎藤 直樹 研究員、同研究部門 沼田 雅彦 総括研究主幹は、計量標準総合センター ドーピング検査標準研究ラボ 井原 俊英 研究ラボ長と共同で、ドーピング検査の対象物質である4-ヒドロキシクロミフェンと3β,4α-ジヒドロキシ-5α-アンドロスタン-17-オンについて定量の基準となる標準液を認証標準物質として開発しました。
国際競技大会などで信頼性の高いドーピング検査を行うには、高度な分析機器に加えて、目的成分について正しい濃度が保証されている標準物質が不可欠であることから、世界ドーピング防止機構(以下「WADA」という)からオリンピック・パラリンピックでの検査基盤強化の一環として産総研に支援の要請がありました。そこで産総研は、定量核磁気共鳴分光法(qNMR)などの測定技術を用いて、禁止物質の代謝物を成分とする認証標準物質(標準液)2種類を開発しました。これらの認証標準物質は2020年3月24日から委託事業者を通して検査分析機関などへの頒布を開始する予定であり、オリンピックやパラリンピックをはじめとする国際競技大会などでのドーピング検査の信頼性向上に貢献します。
ドーピング検査における認証標準物質の役割
開発の社会的背景
国際競技大会などでのドーピング検査は、WADAが公示するドーピング禁止物質のリスト(世界アンチ・ドーピング規程禁止表国際基準)に基づいて行われており、ドーピングの多様化によって禁止物質は増え続け、現在300種類以上にも及んでいます。現在、ドーピング禁止物質など微量生理活性物質の分析には主に液体クロマトグラフ-質量分析計(LC-MS)が用いられていますが、目的成分の定量にはその成分の標準物質で分析機器に対して濃度の目盛付け(校正)をする必要があり、信頼性の高いドーピング検査を実現するには「正しい」値の付けられた(計量トレーサビリティの確保された)標準物質が不可欠です。特に近年は、検体である尿や血清中の禁止物質だけではなく、より遠い過去に行われたドーピングの有無を明らかにできるそれらの代謝物を分析する必要性が増しています。
研究の経緯
4-ヒドロキシクロミフェンと3β,4α-ジヒドロキシ-5α-アンドロスタン-17-オンは、どちらも禁止物質の代謝物であり検査が必要とされていましたが、これまで認証標準物質が供給されていませんでした。ドーピング検査の信頼性確保のためWADAが認定する検査機関には分析結果の計量トレーサビリティが求められており、これまでさまざまな標準物質を供給してきた産総研はWADAからの要請を受けて、上記2物質について計量トレーサビリティ確保に必要な認証標準物質(標準液)の開発を開始しました。
標準液は原料物質を溶媒で溶解して調製しますが、目的成分の濃度は一般に原料物質の純度と溶媒による希釈率から求めてきました。しかし、これまでの有機化合物の純度決定方法は時間と手間のかかるもので、例えば「差数法」という手法ではさまざまな分析装置を駆使して、数か月程度の時間を要していました。そこで産総研は有機化合物の濃度や純度を正しく決定するための方法の開発に取り組んできましたが、その中でも特にqNMRは信頼性と簡便さを兼ね備えた手法です。今回開発した認証標準物質については開発期間や原料物質の量に限りがあったため、qNMRやqNMRと液体クロマトグラフィーを組み合わせた手法(qNMR/LC)を用いて溶液中の目的成分濃度を直接決定することなどにより開発を効率化し、さらに不純物の影響などをできる限り排除して計量トレーサビリティの確保された認証値(標準液の濃度)を決定しました。
研究の内容
今回供給を開始するものは「4-ヒドロキシクロミフェン標準液」と「3β,4α-ジヒドロキシ-5α-アンドロスタン-17-オン標準液」で、LC-MSの校正に適した以下のような認証標準物質になります。
これらの認証標準物質は、標準物質についての品質保証手順を規定する国際的な規格であるISO 17034などと、生産工程を規定する国際的なガイドであるISO Guide 35に基づいて作製しました。なお、4-ヒドロキシクロミフェンはシス体とトランス体(E体・Z体)の異性体の混合物であるため、両者の総量と異性体ごとの認証値を付与しました。
ドーピング検査を担う検体分析機関は、この認証標準物質を希釈して分析装置の校正を行うことで検体中の対象成分の正確な定量分析が行えます。
図1 頒布が開始されるドーピング検査用認証標準物質
4-ヒドロキシクロミフェン標準液(左)と3β,4α-ジヒドロキシ-5α-アンドロスタン-17-オン標準液(右)
今後の予定
今回開発した認証標準物質は、NMIJ CRM 6211-a 4-ヒドロキシクロミフェン標準液と、NMIJ CRM 6212-a 3β,4α-ジヒドロキシ-5α-アンドロスタン-17-オン標準液として2020年3月24日から委託事業者を通して頒布を開始します。
また、今回値付けに用いたqNMRやqNMR/LCなどの手法を適用することで、関連する認証標準物質の開発や標準物質の値付けに関する校正サービスなどの効率化、例えば多成分混合標準液の一斉定量などを実現していく予定です。
用語の説明
- ◆4-ヒドロキシクロミフェン
- 排卵誘発剤などに用いられるクロミフェンの代謝物です。クロミフェンはステロイド剤投与による乳房の女性化を抑制する作用があり、ドーピングの隠ぺいにも悪用されることから、世界アンチ・ドーピング規程禁止表に「S4. ホルモン調節薬および代謝調節薬」の一つとして規定されています。
- ◆3β,4α-ジヒドロキシ-5α-アンドロスタン-17-オン
- 乳がんの治療などに用いられるホルメスタンの代謝物です。ホルメスタンは、生体内で筋肉増強作用のあるステロイドホルモンに変化することから、世界アンチ・ドーピング規程禁止表に「S4. ホルモン調節薬および代謝調節薬」の一つとして規定されています。
- ◆認証標準物質
- 国家計量標準機関である産総研計量標準総合センターでは、国際規格に定められた手順に従って、国際単位系にトレーサブルな標準物質の頒布を行っています。このような標準物質を特に「認証標準物質」と呼び、標準物質とともに計量トレーサビリティを確保した認証値が記載されている認証書が購入者に届けられます。
- ◆定量核磁気共鳴分光法(qNMR)
- 定量核磁気共鳴分光法は主に水素原子を対象としています。物質を磁場の中に置くと、その物質中の水素原子はコマのように歳差運動をします。歳差運動の周期にあった周波数(共鳴周波数)の電磁波を照射すると、水素原子に吸収されてNMR(核磁気共鳴)信号が得られます。NMR信号は、水素原子の結合状態や原子周辺の環境によって共鳴周波数がシフト(化学シフト)するため、化学シフトの異なる信号の面積比は、それぞれの信号に寄与する水素原子の数の比を示します。このため、ある信号に寄与する水素原子数が既知である物質(基準物質)を目的成分に添加して測定を行うことで、両物質のNMR信号の面積の比から目的成分を定量できます。
- ◆液体クロマトグラフ-質量分析計(LC-MS)
- 液体クロマトグラフとは、液体(移動相)を固体粒子(固定相)が詰まったカラムに流し、そこに混合物を注入して粒子表面への吸着のしやすさの違いによって種類の異なる物質を分離する装置です。分離された物質をイオン化して、電場や磁場でその分子量(と電荷の比)ごとに分けて検出する質量分析計と組み合わせることで、主に難揮発性の有機化合物の定性・定量に用いる分析装置がLC-MSであり、高い感度と分離能があります。なお、「液体クロマトグラフィー」とは上記の「液体クロマトグラフ」を用いて、分離・分析を行う手法のことを指します。
- ◆(分析機器の)校正
- 何らかの物質を分析機器で検出すると、その濃度に応じた信号が出力されます。しかし、一般には物質の濃度と出力された信号の強さの関係はわからないので、定量分析を行う際は、濃度のわかった標準液や標準ガスを測定し、濃度と出力の関係(検量線)を求めておく必要があります。これが分析機器の「校正」であり、求めた検量線と濃度未知の試料の応答信号から試料の濃度が計算できます。
- ◆計量トレーサビリティ
- 計量値が測定装置の校正に用いた標準に繋がっている状態のことです。例えば、認証標準物質で適切に校正されたLC-MSにより得られた物質の濃度は認証標準物質の認証値にトレーサビリティがある、と言えます。理想的には、国際単位系(mol、kgなどの基本的な単位)にまでトレーサビリティをさかのぼることができる計量値同士は、いつどこでも同等性があるとされます。
※ISO/IEC Guide 99:2007 [国際計量計測用語-基本及び一般概念並びに関連用語]による計量トレーサビリティの定義:“個々の校正が測定不確かさに寄与する、文書化された切れ目のない校正の連鎖を通じて、測定結果を計量参照に関連付けることができる測定結果の性質”
- ◆qNMRと液体クロマトグラフィーを組み合わせた手法(qNMR/LC)
- NMRの感度は化合物の種類によらず、原子の数に比例するので、qNMRでは原理的には一つの標準物質をものさしとしてさまざまな有機化合物の定量が可能となります。しかし、構造が類似した化合物は同じような化学シフトのNMR信号を示すことが多いため、qNMRだけでは複数成分の混合物中の成分や類似構造をもつ不純物を含む成分の定量が困難でした。一方、有機化合物の分析に汎用されるクロマトグラフィー(ガスクロマトグラフィーや液体クロマトグラフィー)は分離分析に適し、NMRより高感度ですが、一般に目的成分それぞれについて分析機器のものさしとなる標準物質が必要でした。そこで、両手法を組み合わせることで、それぞれの長所を併せもつ定量分析が可能となりました。
- ◆異性体
- 同じ数、同じ種類の原子から構成されるが、構造が違う物質です。4-ヒドロキシクロミフェンにはシス体とトランス体という、炭素=炭素二重結合の周辺の原子団の結合位置の異なる異性体が存在します。