進むべきか戻るべきか? ~過去の経験を基にして行動を逆転させる機構の解明~

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2021-05-26 東京大学

佐藤 博文(生物科学専攻 特任研究員)
飯野 雄一(生物科学専攻 教授)

発表のポイント

  • 線虫(注1) は飼育された環境によって塩濃度の好みが逆になります。この時、味覚を感じる感覚神経から、その神経とつながっている神経(介在神経)への情報の伝わり方が逆転していることを見出しました。
  • 味覚を感じる感覚神経からの神経伝達物質であるグルタミン酸(注2) の放出と、介在神経における2種類のグルタミン酸受容体(注3) が、好みの塩濃度へ向かう行動を制御することを明らかにしました。
  • グルタミン酸受容体による神経活動の制御は哺乳類の神経でも見られる現象です。本研究の成果は、記憶と学習の基本的な仕組みの新たな例となるものです。

発表概要

動物は過去に餌のあった環境を記憶し、その記憶をたよりに新たな餌を探します。このような探索行動を行うためには、周りの環境を正しく把握し、進むべき方向を決める必要があります。しかし、この時に脳や神経系の内部でどのような制御が行われているのかについては、まだ分からない部分が多く残されています。

線虫は餌のあった場所の塩濃度を記憶し、餌を求めてその濃度へと向かう行動を示します。今回、東京大学大学院理学系研究科の佐藤博文特任研究員と飯野雄一教授らは、東北大学橋本教授らとの共同研究により、この行動において、感覚神経(注4)が介在神経(注5) を興奮させるか抑制するかが、過去に経験した塩濃度に応じて逆転することを示しました。また感覚神経からのグルタミン酸と、介在神経における興奮性と抑制性の2種類のグルタミン酸受容体によって、情報の伝わりかたが制御され行動変化にいたることを明らかにしました。グルタミン酸による神経間の情報伝達は哺乳類の神経系でも用いられていますが、記憶に基づく行動の調節が興奮性と抑制性の2種類のグルタミン酸受容体によって行われていることが明らかになったのは初めてです。本研究成果は、動物に広く見られる学習行動の機構を解明するために役立つと期待されます。

発表内容

多くの動物は、餌のあった環境を記憶することができます。そして餌のない環境におかれた時、過去の記憶をもとにして餌を探索します。このとき、脳・神経系に作られた記憶と、今いる場所から得られる情報を比べて進むべき方向を決める必要があります。しかし、このような情報処理の仕組みについてはまだ分かっていない部分が多く残されています。

線虫は体長1㎜程の生物で、およそ300個の神経細胞からなる神経系をもちます。線虫の神経系は単純ではあるものの、味覚や嗅覚、温度など多くの感覚刺激を受容し、またそれらを記憶することができます。例えば食塩(塩化ナトリウム、以後「塩」とよびます)に対しては、餌の有った場所の塩濃度を記憶し、その濃度へ向かう性質を示します。すなわち、高塩濃度環境で飼育された線虫は高塩濃度を好み、低塩濃度で飼育された線虫は低塩濃度を好みます。これまでに行われた研究から、塩濃度の記憶にはASERという名前の味覚を感じる感覚神経が重要であることが分かっていました。またASER神経が塩濃度の変化を感知することで、線虫は特定の塩濃度へ移動できることが明らかになっていました。しかし、ASER神経から伝えられる味覚情報がどのように行動に変換されるのかについては、解明されていませんでした。

今回、研究グループは、東北大で開発されたロボット顕微鏡を改良し、自由に動いている線虫の行動と神経活動を同時に測定できるシステムを導入しました。このシステムを用いることで、線虫が過去に経験した塩濃度へ向かう際に、神経がどのようにはたらくかを解析しました。その結果、感覚神経ASERは常に塩濃度が下がった時に興奮し、塩濃度が上がった時には抑制されました。一方で、線虫の行動は過去に高塩濃度で飼育されたか低塩濃度で飼育されたかによって逆転しました。具体的には、高塩濃度で飼育された線虫は塩濃度が下がった時に後退・方向転換する傾向を示したのに対し、低塩濃度で飼育された線虫は塩濃度が上がった時に後退・方向転換しました。次に、ASER神経の下流のAIB介在神経を観察した結果、介在神経の活動は飼育された塩濃度に応じて逆転し、線虫の後退と対応した活動パターンを示すことが明らかになりました。すなわち、感覚神経と介在神経の間で感覚入力情報が行動出力情報へと変換されることが明らかになりました(図1)。また、ASER感覚神経が興奮した時にAIB介在神経が興奮するか抑制されるかが、飼育された塩濃度によって逆転することが明らかになりました(図1)。すなわち、高塩濃度で飼育された線虫では、「ASER興奮→AIB興奮」、「ASER抑制→AIB抑制」となりますが、低塩濃度で飼育された線虫では「ASER興奮→AIB抑制」、「ASER抑制→AIB興奮」となります。

進むべきか戻るべきか? ~過去の経験を基にして行動を逆転させる機構の解明~

図1:線虫が過去に餌と共に経験した塩濃度へ向かう仕組み
線虫は塩濃度の変化をASER感覚神経で受容します(中段)。その際ASER神経はグルタミン酸を放出し、AIB介在神経にある2種類の受容体(興奮性のGLR-1と抑制性のAVR-14)によって受容されます。これらの受容体を介したシグナル伝達によってAIB神経の興奮または抑制が引き起こされ、個体が前進するか後退するかが決定されます。高塩濃度で飼育された個体(上段)では、塩濃度が低下した際にASER神経が興奮し、AIB神経も興奮します。その結果後退・方向転換が引き起こされ、高塩濃度側へ向かいます。塩濃度が上昇した場合はASER・AIB共に抑制され、前進を続けてやはり高塩濃度側へ向かいます。一方、低塩濃度で飼育された個体(下段)では、ASER神経の応答は高塩濃度飼育個体と同様ですが、AIB神経の応答が逆転しています。その結果、線虫の行動も逆転し、低塩濃度側へ向かいます。


続いて、感覚神経から介在神経へどのようにして情報が伝わるのかを調べました。その結果、感覚神経からのグルタミン酸の放出が情報を伝達することが分かりました。また線虫は複数のグルタミン酸受容体をもちますが、そのうちの2種類が介在神経で機能することが分かりました。1つはAMPA型グルタミン酸受容体(注6) であるGLR-1で、グルタミン酸を受け取ると細胞を興奮させる興奮性受容体です。もう1つはグルタミン酸作動性Clチャネル(注7)のAVR-14で、グルタミン酸を受け取ると細胞の活動を抑える抑制性受容体と考えられています。これら2種類の受容体によって、線虫が餌と共に経験した塩濃度に向かう行動が制御されることが明らかになりました(図1)。詳細な機構については今後の課題となりますが、おそらく、高塩濃度で飼育された線虫ではGLR-1による興奮性の作用がより強くはたらき、低塩濃度で飼育された線虫ではAVR-14による抑制性の作用がより強くはたらく機構が存在すると考えられます。

記憶をたよりに餌を探索する行動は、生存に直結することから、多くの動物で見られます。またグルタミン酸とその受容体による神経間の情報伝達は、哺乳類や昆虫でも用いられています。今回の研究結果は、動物が普遍的に備えている行動調節機構を理解するための新たな知見となり、記憶と学習のしくみの解明に役立つと期待されます。またある種の線虫は農作物に被害を与える害虫として知られています。そのため線虫の餌探索行動のメカニズムが明らかになることで、農作物の被害を抑制するための新たな技術開発につながる可能性があります。

発表雑誌
雑誌名
Cell Reports論文タイトル
Glutamate signaling from a single sensory neuron mediates experience-dependent bidirectional behavior in Caenorhabditis elegans.著者
Hirofumi Sato, Hirofumi Kunitomo, Xianfeng Fei, Koichi Hashimoto, Yuichi Iino

DOI番号
10.1016/j.celrep.2021.109177

論文URL

用語解説

注1 線虫
正式な学名は「Caenorhabditis elegans」。成虫の体長が約1㎜の非寄生性の線形動物で、自然界では土壌や腐った果物の中などに生息します。神経系を構成する全細胞とその接続が明らかになっていることや、体が透明であり観察が容易であること、世代交代が早いことなどの利点から、モデル生物として多くの研究に用いられています。

注2 神経伝達物質グルタミン酸
神経細胞の中では電気的な興奮が伝わっていきますが、神経と神経のあいだはシナプスという接続部で接しており、神経伝達物質という特定の物質を一方の神経が出し、他方が受け取ることによって興奮を伝えていきます。グルタミン酸はアミノ酸の一種ですが、脳・神経系においては多くの動物で神経伝達物質として用いられています。

注3 グルタミン酸受容体
主にグルタミン酸と結合し、生体内で様々な作用を引き起こすタンパク質の総称です。神経細胞の場合は神経間伝達(シナプス伝達)の受け手として働きます。グルタミン酸が結合した際の機能やグルタミン酸以外に受容できる化学物質の種類などによっていくつかの種類に分類されています。

注4 感覚神経
外部から与えられる味覚や嗅覚、触覚や温度などの感覚刺激を受容する神経を指します。線虫の神経はそれぞれ名前がつけられており、本研究で対象としたASERという名前の感覚神経は、塩(NaCl)の濃度の変化を認識する機能をもちます。

注5 介在神経
感覚神経など上流の神経から入力を受け、下流の神経へと刺激の伝達を行う神経を指します。

注6 AMPA型グルタミン酸受容体
グルタミン酸受容体の一種。AMPA(α-アミノ-3-ヒドロキシ-5-メソオキサゾール-4-プロピオン酸)を選択的に受容するため、この名前が付けられています。グルタミン酸が結合することで陽イオンを透過させ、細胞の興奮を引き起こします。

注7 グルタミン酸作動性Clチャネル
グルタミン酸受容体の一種で、グルタミン酸の結合によりClイオンを透過させる性質を持ちます。主に抑制性のシグナル伝達を担うと考えられています。

生物化学工学
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