江戸時代の愛玩用ねずみから受け継がれた遺伝子
2019-08-01 国立遺伝学研究所
■ 概要
マウス遺伝学の「ABC」をご存知でしょうか?a は黒色の毛色になる変異、bは茶色の毛色になる変異、cは 白色の毛色(アルビノ)になる変異です。このABCは、マウス遺伝学の黎明期にアルファベットの一文字で有名 な変異が順番に表記されたことに由来し、これらの変異を「古典的変異」と呼びます。黒色の毛色になる a はノンアグーチ(1)とよばれ、その原因は 1994 年の論文で報告されました。その論文によると、Agouti(2)遺伝子内に VL30 というレトロウイルス様配列(3) が挿入されたことで毛色が野生色の茶色から黒色に変化したとされ、今までの四半世紀の間、広く信じられてきました。
情報・システム研究機構 国立遺伝学研究所の田邉彰研究員と小出剛准教授らの研究グループは、VL30 の挿入が原因ではなく、この配列の中にさらに入れ子状に挿入された別のタイプのレトロウイルス様配列(β4) が、黒色の毛色の真の原因であることをつきとめました(図 1)。また、この黒毛変異は日本産愛玩用マウス(4)を 起源としていることを発見しました(図 3)。この黒毛変異は現在の標準的な実験用マウス系統の多くに共通し てみられることも分かりました。
本研究成果は、マウス実験で古くから利用されている黒毛変異の理解を深めるとともに、レトロウイルス様 配列の挿入に起因する遺伝子変異のしくみおよびゲノム進化の理解に貢献すると期待されます。
図 1:アグーチ遺伝子へのレトロウイルス様配列挿入が引き起こす黒色の毛色 古典的変異であるノンアグーチは、2段階のレトロウイルス様配列の挿入により生じた。ア グーチ遺 伝子のイントロン(5)内にレトロウイルス様配列の VL30 が挿入されたが、アグーチの毛色に変化は生 じない。次に VL30 内にレトロウイルス様配列β4 が挿入されたことで、アグーチ遺伝子の発現が遮 断され、黒色の毛色が生じた。ゲノム編集によりβ4 配列のみを削除したβ4-del マウスと、 β4 を含 む VL30 全体を削除した VL30-del マウスは、ともに茶色のアグーチ表現型を示したことにより、β4 が黒色に毛色を変化させる主要な役割を果たしていることがわかる。
■ 成果掲載誌
本研究成果は、英国科学雑誌「Communications Biology」に 2019 年 8 月 2 日午前 10 時(英国夏時間)に掲載 されます。
論文タイトル: Nested retrotransposition in the East Asian mouse genome causes the classical nonagouti mutation (東アジアのマウスにおける内在性レトロウイルスの入れ子型挿入が古典的ノンアグーチ変異の 原因である)
著者: Akira Tanave, Yuji Imai, Tsuyoshi Koide (田邉 彰、今井悠二、小出 剛)
■ 研究の詳細
●研究の背景
マウスのノンアグーチ(黒毛)表現型は、アルビノ(白毛)やアグーチ(茶毛:野生色)といった代表的な毛色 のうちの一つで、一目で判別できることから様々なマウス実験で利用されています。標準的な実験用マウス系 統 C57BL/6(B6 と略する)をはじめとする多くの実験用マウスは黒毛の表現型を示します(図2)。黒毛の表現 型は、レトロウイルス様配列 VL30 が Agouti 遺伝子に挿入されたことで、遺伝子産物のアグーチタンパクの発 現が異常になることに起因すると考えられてきました。しかしながら、黒毛の原因と考えられた VL30 の挿入配 列の中には未知の配列も含まれており、アグーチタンパクの発現異常の分子メカニズムはよくわかっていませ んでした。
図 2:代表的な実験用系統 C57BL/6 (B6)と野生系統 MSM (左)B6 系統は黒毛のノンアグーチ変異(a)を有することで知られている。他にも多数の実験用系統がノンアグーチ変異を持つ。 (右)日本産の野生系統 MSM。アグーチ(A)の遺伝子型で野生色(茶色)を示す。
●本研究の成果
情報・システム研究機構 国立遺伝学研究所の田邉彰研究員と小出剛准教授らの研究グループは、Agouti 遺伝子上の挿入配列を詳細に解析することで、VL30 配列のなかに β4 という異なるレトロウイルス様配列が 入れ子状に挿入した構造を見出し、このβ4 により Agouti 遺伝子転写産物のスプライシングが異常をきたすこ とを明らかにしました。さらに、ゲノム編集によりβ4 配列を正確に欠損させたマウスを作製したところ、そのマ ウスは野生色の茶毛に戻りました(図2)。これらの実験結果から、黒毛の原因が、従来考えられていた VL30配列によるものではなく、新たに見つかった β4 配列によるものであることを明らかにしました。また、この知見 をもとに、様々な実験用マウスと野生マウスにおける Agouti 遺伝子への挿入変異の有無を調べたところ、野生 色を示すヨーロッパ産の野生系統は挿入が見られないものの、アジア産の野生系統は VL30 のみの挿入配列 を持っていました。一方、江戸時代に存在していた日本産愛玩用マウスである JF1 由来の系統が、黒毛の実 験用マウスと全く同一の VL30 と β4 の入れ子状の挿入配列を持つことを見出しました(図 3)。これらの結果 から、標準的な実験用マウス系統で広くみられる黒毛の変異は日本産愛玩用マウスから広まったことが明らか になりました。
図 3:古典的変異ノンアグーチ(黒毛)と日本産愛玩用マウスとの関連 VL30 配列は、東アジア産野生マウスにおいてアグーチ遺伝子に挿入された。その後、 日本産愛 玩用マウスがつくられるまでの過程で VL30 内にβ4の挿入が生じて、黒毛となった。日本産愛玩 用マウスと標準的な実験用マウスの間で同じ黒毛変異が共有されていることから、ノンア グーチ変異は日本産愛玩用マウスから広まったものであることが分かった。実験用マウス B6 と日本産愛玩 用マウス JF1 は、ともにβ4の挿入を持ち黒毛になる。
● 今後の期待
本研究成果は、マウス遺伝学の「古典的変異」のしくみを明らかにしただけでなく、レトロウイルス様配列の 挿入による遺伝子発現異常のメカニズムとゲノム進化の理解に貢献すると期待できます。
■ 用語解説
(1) ノンアグーチ
野生のげっ歯類の多くは、毛の一本一本の色が根元から先まで黒色・黄色・黒色の特徴的なパターンを形 成し、中南米に生息する「アグーチ」というげっ歯類にちなんでアグーチパターンと呼ばれている。このパタ ーンの見た目は茶色になる。一方で、このアグーチパターンがなくなった単色の毛をノンアグーチと呼び、通 常黒色になる。 毛の色は毛包に存在する色素細胞(メラノサイト)が合成するメラニン色素によって決まるが、黒毛マウスで は黒色と黄色のメラニン色素のバランスを調節するアグーチタンパクがないため、黒色の色素しか合成され ない。
(2) Agouti
アグーチタンパクをコードする遺伝子で、毛の生え具合に従って発現が ON/OFF され、ON のときにアグー チタンパクが機能し黄色の色素が合成される。その結果、毛の一本一本に黒色・黄色・黒色の特徴的なア グーチパターンが形成される。古典的な遺伝学では A 遺伝子として表記され、AA と Aa の遺伝子型ではア グーチパターン、aa の遺伝子型ではノンアグーチとなる。
(3)レトロウイルス様配列
ゲノムには各種のレトロウイルス様配列が挿入されている。レトロウイルス様配列はゲノムに感染し、その 後増幅する。一部欠損した不完全型を合わせたゲノム全体でのコピー数はレトロウイルス様配列のタイプ により大きく異なるが、わずかに数コピーのものから、千コピーに至るものまで多様である。これらが遺伝子 内や近傍に挿入することで様々な変異の原因となる例が報告されている。
(4) 日本産愛玩用マウス
マウス(和名:ハツカネズミ、学名:Mus musculus)の一品種で、標準的な実験用マウスに比べて小型。江戸 時代の日本でペットとして飼育されていたマウスで、当時に書かれた書物「珍翫鼠育草」では「豆ねずみ」や 「豆ぶち」などの名前で呼ばれていた。現在では「豆ぶち」に姿がよく似たマウスが JF1/Ms マウスとして系 統化され、その白と黒のぶち模様がエンドセリン受容体 B 型遺伝子の変異に起因することを小出らが 1998 年に示した。また、同報告により JF1 は遺伝的に日本のマウス由来であることが示されている。
(5)イントロン
遺伝情報としての RNA に転写される遺伝子配列はエクソンとイントロンの配列により構成される。エクソン はタンパク質をつくる情報となるがイントロンはタンパク質をつくるための情報となるメッセンジャーRNA を作 る際に切りとり分解される。このことから、遺伝情報としては不要な配列とも考えられていたが、近年は遺伝 子の発現を調節する働きなどがあることが示されてきている。
■ 研究体制と支援
本研究は情報・システム研究機構 国立遺伝学研究所 マウス開発研究室の田邉彰、今井悠二、小出剛に よって遂行されました。
本研究の一部は、科研費(基盤研究 B)「新規野生由来ヘテロジニアスマウス集団を用いた不安障害モデル の確立」、科研費(基盤研究 B)「動物のヒトへのなつき行動における遺伝子・神経回路および行動学的基盤の 解明」の支援を受けておこなわれました。
■ 問い合わせ先
<研究に関すること>
●国立遺伝学研究所 マウス開発研究室
准教授 小出 剛 (こいで つよし)
<報道担当>
●国立遺伝学研究所 リサーチ・アドミニストレーター室 広報チーム