2018-07-27 理化学研究所
理化学研究所(理研)脳神経科学研究センター神経回路・行動生理学研究チームの田中和正基礎科学特別研究員、トーマス・マックヒューチームリーダーらの共同研究チーム※は、自由に行動するマウスの海馬[1]の「記憶エングラム[2]」の活動の記録に成功しました。その結果、記憶エングラム細胞は、これまで予想されていたような動物の位置情報の記憶ではなく、文脈情報を保存していることが明らかになりました。
本研究成果は、記憶デバイスとしての海馬の動作原理に迫る重要な発見です。
海馬は「いつ、どこで、何が起こった」という文脈情報に基づいたエピソード記憶に必要不可欠ですが、どのようなメカニズムでエピソード記憶を担うか、明らかではありません。今回、研究チームは、テトロード記録法[3]と光遺伝学[4]、そして特殊な遺伝子組換えマウスc-Fos-tTAマウス[5]を組み合わせ、マウスが新しい文脈を経験した際に形成される記憶エングラムの神経活動を記録することに成功しました。これまで、記憶エングラムには動物が経験した場所の位置情報が保存されていると予想されていましたが、解析の結果、記憶エングラムが表現する位置情報は極めて不安定であり、その活動は文脈のアイデンティティ[6](文脈を構成する情報の組み合わせ)に素早く応答していることが明らかになりました。これは、海馬には動物の位置情報を保存する場所細胞[7]とは別に、文脈情報を保存する記憶エングラムが存在することを示し、海馬が記憶エングラムの活動を通してエピソード記憶のインデックス(索引)として機能することを示しています。
本研究は、米国の科学雑誌『Science』の掲載に先立ち、オンライン版(7月26日付け:日本時間7月27日)に掲載されます。
図 位置情報を保存する場所細胞と文脈情報を保存する記憶エングラム
※共同研究チーム
理化学研究所 脳神経科学研究センター
チームリーダー トーマス・マックヒュー(Thomas J. McHugh)
(東京大学大学院 総合文化研究科 客員教授)
基礎科学特別研究員 田中 和正(たなか かずまさ)
研究員 アヌプラタップ・トマール(Anupratap Tomar)
技術員 新里 和恵(にいさと かずえ)
技術員 アーサー・ファン(Arthur J.Y. Huang)
東京大学大学院 総合文化研究科 大学院生 賀 洪深(Hongshen He)
※研究支援
本研究は、日本学術振興会(JSPS)科学研究費補助金 若手研究B「海馬記憶痕跡の形成と機能のための電気生理学的メカニズム(研究代表者:田中和正)」、同 新学術領域研究「Hypothalamic control of hippocampal action selection(研究代表者:トーマス・マックヒュー)」、同 新学術領域研究「Retrosplenial/Hippocampal Circuit Control of Map Selection(研究代表者:トーマス・マックヒュー)」、ブレインサイエンス振興財団「記憶の記銘と想起を担う神経活動を特定する(研究代表者):田中和正)」、上原記念生命科学財団「記憶学習における時間薬理学の開拓(研究代表者:田中和正)」、武田科学振興財団ビジョナリーリサーチ(スタート)「記憶学習における時間薬理学の開拓(研究代表者:田中和正)」による支援を受けて行われました。
背景
海馬は、「いつ、どこで、何が起こった」という文脈情報に基づいた、過去のエピソードについての記憶(エピソード記憶)に必要不可欠な脳部位です。しかし、海馬がどのようなメカニズムでエピソード記憶を担っているのかという問題については、数多くの仮説が存在しており、まだよく分かっていません。代表的な仮説の一つは、2014年のノーベル賞受賞で注目を集めた「場所細胞」による「認知地図仮説」です。動物が空間を移動する際、その時々の位置に応じて海馬の場所細胞が活動します。そのためこの仮説では、海馬の神経細胞は動物のその時々の位置情報を伝える地図のようなもので、その活動によって文脈とエピソード記憶を定義するのだと考えています。また、海馬の記憶素子は任意の場所における位置情報を保存するとしています。
一方で、「記憶インデックス仮説」という別の仮説も存在します。この仮説では、エピソード記憶を構成する情報は海馬ではなく大脳皮質に保存されていて、海馬にはそれらを呼び起こすためのインデックス(索引)が記録されているとしています。文脈条件づけ[8]という行動実験とc-Fosなどの最初期遺伝子[9]を使った研究では、この記憶インデックス仮説と矛盾しない結果が得られています。
例えば、動物が新しい文脈を経験するとき、海馬には、空間内を移動しなくても活性化される神経細胞が存在します。このように、場所に限らず文脈に応答して活性化される海馬神経細胞群は「記憶エングラム」とも呼ばれ、人為的に活動を誘導・抑制することでその文脈についての記憶を呼び起こしたり、抑制したりできることが近年の研究で分かってきました。さらに、海馬の記憶エングラムの活動を抑制することで、記憶を想起しようとする際に大脳皮質の神経細胞が再活性化されなくなるという報告も記憶インデックス仮説と合致します。
さて、これら二つの仮説は両立するのでしょうか。 記憶エングラムが場所細胞ならば、空間内の位置情報を安定して保存しているはずです。しかし、その見方に矛盾する研究結果も多く報告されており、エピソード記憶を担う海馬のメカニズムは、今もなお現代神経科学の大きな謎です。
研究手法と成果
この問題に取り組むため、共同研究チームは、マウスが新しい文脈Aを探索して記憶を獲得する際に形成された記憶エングラムの活動を、記憶獲得時(記銘A)、同じ文脈に再度訪れて思い出すとき(想起A)、全く別の文脈を探索するとき(記銘B)の三つの条件において記録しました。活動を記録した海馬神経細胞のうちどれが記憶エングラムなのかを同定するために、記銘Aの記録時に記憶エングラムとなった海馬CA1の細胞群だけを標識することができる特殊な遺伝子組換えマウス(c-Fos-tTAマウス)と光遺伝学を用いました。そして、標識には光感受性タンパク質のチャネルロドプシン(Channelrhodopsin, ChR2)[10]を用いました。ChR2で標識された神経細胞は青色の光を当てるとそれに応答して活動するため、青色光に応答した細胞を記憶エングラムとして活動記録データから同定しました(図1)。
まず、記憶獲得時(記銘A)において、記憶エングラムが場所細胞であるかどうかを調べました。すると、マウスが新しい文脈を探索しているとき、記憶エングラムのほとんどが特定の場所に応答して活動する場所細胞であることが分かりました。ところが、記憶エングラムは場所細胞の一部でしかなく、「場所細胞の多くは記憶エングラムではない」ことが明らかになりました。
そこで次に、記憶エングラムである場所細胞と記憶エングラムではない場所細胞とで、何が違うのかを調べました。記憶獲得時(記銘A)の活動パターンを詳しく解析したところ、記憶エングラムである場所細胞の活動によって表される空間情報量が、記憶エングラムでない場所細胞のそれよりも小さいことが分かりました。これは、記憶エングラムが場所細胞として優秀ではないことを示しています。
さらに、記憶エングラムは記憶獲得時にシータバースト[11]と呼ばれる特殊な活動パターンを示すことも明らかになりました。この活動パターンは、神経細胞同士の結合を強めることが古くから知られており、この結果から記憶エングラムが形成される際に、神経細胞同士のつながりであるシナプス間の結合強度が変化する可能性が示されました。
次に、記憶エングラムが記憶に対して担う役割を解明するため、マウスが同じ文脈を再度訪れて思い出すとき(想起A)の記憶エングラムの活動を詳しく調べました(図2左)。すると、記憶エングラムではない場所細胞が、記銘Aで活動した同じ位置に対して安定した応答を示す一方で、記憶エングラムは空間内の全く異なる場所に対して活動し、その活動位置を変化させていました。この結果は、その文脈における位置情報を保存しているのは記憶エングラムではなく、記憶エングラム以外の場所細胞であることを示しています。
では、記憶エングラムは何の記憶を保存しているのでしょうか。この問いに答えるため、マウスが別の文脈Bを探索している際の、文脈Aで形成された記憶エングラムの活動を調べました。すると、文脈Bでは文脈A記憶エングラムの多くにおいて活動量が大きく変化し、そのほとんどは活動せず沈黙していました。一方、記憶エングラムでない場所細胞においては、活動量はあまり変わらずに、記銘Aとは別の位置に対して活動するという形で文脈Bを表現していました。この結果は、記憶エングラムがその活動量の変化を通して、文脈のアイデンティティ(文脈を構成する情報の組み合わせ)を表現していることを示しています。
そこで、記録した記憶エングラムとそれ以外の場所細胞の活動量データのみを用いて、実際にマウスが探索している文脈を弁別することを試みました。その結果、記憶エングラムのデータを用いた場合には高い確率で弁別に成功したのに対して、それ以外の場所細胞のデータでは偶然期待される確率での弁別以上の成績を収めることはできませんでした(図2右)。さらに、マウスが文脈Aを再度訪れた際の最初の数分もしくは数十秒の活動量データからでも、高い確率で文脈の弁別に成功しました。これは、動物が文脈を再認する際には空間内を物理的に探索する必要がないという、認知地図仮説が抱えていた矛盾を解消する結果です。
以上の結果から、海馬には、認知地図仮説が空間記憶の素子として想定する場所細胞と、文脈のアイデンティティを表す記憶エングラムの2種類の記憶痕跡が別々に存在することが分かりました。さらに、「記憶エングラムが記憶インデックス仮説の提唱する記憶インデックスの実体であり、その活動が動物の脳内で表現される経験の情報と結びつくことでエピソードを定義する役割を担っている」という仮説を提唱しました。
今後の期待
これまでの研究により、海馬の記憶エングラムにはエピソード記憶の物理的痕跡が含まれることが示されてきましたが、その痕跡にどのような情報が保存されているかは不明でした。本成果は、記憶エングラムに保存されている情報を解読した画期的な成果です。
今後は、記憶エングラムや場所細胞、そして他の脳領域の神経ネットワークがどのように相互的に機能するのかを明らかにすることで、脳の記憶メカニズムの包括的理解につながると期待できます。
原論文情報
Kazumasa Z. Tanaka*, Hongshen He, Anupratap Tomar, Kazue Niisato, Arthur J.Y. Huang, Thomas J. McHugh*, “The Hippocampal Engram Maps Experience But Not Place”, Science, 10.1126/science.aat5397
発表者
理化学研究所
脳神経科学研究センター 神経回路・行動生理学研究チーム
チームリーダー トーマス・マックヒュー(Thomas J. McHugh)
(東京大学大学院 総合文化研究科 客員教授)
基礎科学特別研究員 田中 和正(たなか かずまさ)
報道担当
理化学研究所 広報室 報道担当
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補足説明
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- 海馬
- 内側側頭葉の一部で、ある種の記憶や学習に関わる。なかでも、過去に経験した出来事についての記憶(エピソード記憶)に特に関わることが知られている。海馬の機能が損なわれることで、他の認知機能に影響を与えることなくエピソード記憶が損なわれること、そして記憶デバイスとして適した構造と性質を持っていることから、長年記憶研究の対象として注目されてきた。
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- 記憶エングラム
- 「情報に過ぎない記憶が、脳内で保存されるための物理的痕跡とは何か」という問いに対して、20世紀初頭にSemonが記憶の痕跡を含む神経細胞集団を「エングラム」と名付けた。最初期遺伝子と光遺伝学を用いた近年の研究により、「動物が記憶を獲得する際に最初期遺伝子を発現する神経細胞群の活動が、その記憶を思い出すのに必要で、なおかつ人為的に活性化することで記憶を呼び起こす」とき、それら細胞群を記憶エングラムと呼ぶようになった。
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- テトロード記録
- 自由に行動する動物の生きた脳から、一つ一つの神経細胞の活動を記録する方法。4本の電極を束ねたテトロード電極を使用し、各電極から検出される活動電位の差から電極周囲にある複数の神経細胞の活動を同時に記録することができる。マウスからのテトロード記録は、マックヒューらが世界で初めて確立した。
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- 光遺伝学
- 光によって活性化されるタンパク質を遺伝学的手法を用いて細胞に発現させ、その機能を光で操作する一連の技術。神経細胞に応用されることが多く、遺伝子によって定義される特定の神経細胞群の活動を、外部から任意のタイミングで正確に活性化したり抑制したりすることができる。光遺伝学は現代の脳神経科学分野で広く使われており、その基礎研究の発展に貢献し続けている。
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- c-Fos-tTAマウス
- 最初期遺伝子の一つであるc-Fosを利用した遺伝子組換えマウス。TetTagマウスとも呼ばれ、記憶エングラムの研究にしばしば使われる。実験者が指定する任意の時間枠内でc-Fosを発現した神経細胞群を、蛍光タンパク質やチャネルロドプシン(後述)で標識することができる。
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- 文脈のアイデンティティ
- 例えば、スポーツの試合をスタジアムで観戦していて、自分の応援しているチームが劇的な勝利を収めたとき、その背後にもさまざまな情報が存在している。歓声が聞こえ、大きく揺れる応援旗が目に入り、興奮した人々の汗と香水の匂いがし、手には見知らぬ隣人と交わした握手の感触が残る。多くの動物は、こうした情報をシャットアウトするのではなく、その出来事を定義する文脈として記憶している。海馬は、視覚や聴覚、嗅覚などから得られる個々の文脈情報を別々に扱うのではなく、これらの情報を統合した上で、一つの情報として扱っていることが心理学的な実験から示されてきた。このように、ある文脈を構成する情報の組み合わせを文脈のアイデンティティと呼ぶ。
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- 場所細胞
- 海馬の神経細胞の多くは、動物が空間内に占める位置に応答して活動する。これら一つ一つの「場所細胞」が異なる位置に応答するため、場所細胞の集団として空間内全域をカバーすることになる。そのため、場所細胞は空間を認識するための地図のような役割を果たすと考えられている。O’keefeらはこの見方を拡張して、海馬の細胞が空間認識以外の認知機能においても広く関与するという認知地図仮説を提唱した。2014年、場所細胞の発見によりO’keefeらにノーベル生理学・医学賞が授与された。
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- 文脈条件づけ
- 音刺激(条件刺激)とエサ(無条件刺激)を条件づけたパブロフの犬の実験のように、動物が経験している文脈(条件刺激)と何らかの罰や報酬(無条件刺激)を条件づける一連の行動実験。文脈と弱い電気ショックとを組み合わせた文脈恐怖条件づけが、海馬の研究では広く利用されている。齧歯類は自らへの脅威を感じたとき、動かず立ちすくむことでやり過ごそうとする習性があり、このすくみ行動を恐怖記憶の指標として用いる。
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- 最初期遺伝子
- 神経細胞において、刺激に反応して、新しいタンパク質合成を必要とすることなく転写開始する遺伝子群として定義される。その発現が一過的であることから、神経活動の間接的な指標として利用されてきた。シナプス可塑性や記憶に重要な役割を果たしている。
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- チャネルロドプシン
- 前述の光遺伝学で広く使われる光感受性タンパク質の一つ。もともとは緑藻類クラミドモナスの光感覚器官に存在するタンパク質であり、青色光に反応して開く陽イオンチャネルである。神経細胞では青色光を当てることで、膜電位の脱分極を起こし、活動電位を誘導することができる。
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- シータバースト
- 神経細胞において、3-15ミリ秒の間隔で立て続けに起こる活動電位をバーストといい、さらにおよそ100ミリ秒の間隔をあけて立て続けにおこるバーストをシータバーストという。脳切片を用いた電気生理学実験では、このシータバーストにならった電気刺激により、長期増強というシナプス可塑性を誘導できることが知られていた。
図1 光遺伝学によって同定された記憶エングラムとその発火位置
A. 光遺伝学を用いた記憶エングラム同定の様子(上段、模式図)と、標識された記憶エングラムと標識されていない他の海馬神経細胞の青色光への応答(下段、グラフは一例)。
B. 動物が空間内を移動するときの記憶エングラムと別の場所細胞の発火位置(一例)。中段および下段のヒートマップの単位はヘルツ(Hz)。
図2 記憶エングラムとそれ以外の場所細胞による異なるふるまい
(左)実験の模式図。マウスはまず文脈Aを探索し、その後同じ文脈Aへと戻される。最後に異なる文脈Bを探索する(上段)。これら三つの行動のあいだ、海馬CA1神経細胞の活動を記録する。記録した記憶エングラム(中段)および別の場所細胞の発火位置(下段)。
(右)記憶エングラムとそれ以外の場所細胞の活動量データを用いた探索文脈の弁別。記憶エングラムのデータを用いた際に高い文脈弁別指標が得られた。