生体の脂質多様性をより短時間で解析する手法を開発 ~計測手法と情報処理技術の改良で大規模解析研究を加速~

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2024-01-12 東京農工大学

国立大学法人東京農工大学大学院工学研究院生命機能科学部門の津川裕司准教授らの共同研究グループは、「質量分析法(注1)」の計測手法と情報処理技術を改良することで、従来法の3分の1の時間で脂質多様性を捉える手法を開発しました。この手法により、生体内の脂質成分を網羅的に捉える「ノンターゲットリピドミクス(注2)」の実用レベルが向上し、コホート研究(注3)のような大規模解析に適用することが可能となり、脂質を基軸とした生命科学研究の加速が期待されます。

本研究成果は、American Chemical Societyが発行するAnalytical Chemistry(1月12日付)に掲載されましした。
論文タイトル:Using data-dependent and independent hybrid acquisitions for fast liquid chromatography-based untargeted lipidomics
著者:Tokiyoshi Kanako, Matsuzawa Yuki, Takahashi Mikiko, Takeda Hiroaki, Hasegawa Mayu, Miyamoto Junki, Tsugawa Hiroshi.
URL:https://doi.org/10.1101/2023.10.12.562117

背景
生物において、脂質はエネルギー源としてだけでなく細胞膜を構成するなど様々な役割を果たす重要な物質です。脂質は分子量や構造に多くの多様性を有しており、自然界では10万種以上存在すると言われています。こうした脂質の多様性および量的バランスは細胞や組織の機能形成・維持に重要であると考えられており、生体中の脂質の総体(リピドーム)を包括的に解析し、生命システムをより詳細に理解する「リピドミクス」と呼ばれる学術分野が重要視されています。近年のリピドミクスに関する研究では、特定の脂質分子に対象を絞らず脂質多様性を包括的に捉える「ノンターゲットリピドミクス」を実現するための技術として、液体クロマトグラフィータンデム質量分析(LC-MS/MS)(図1)を用いた手法の開発が進められています。LC-MS/MSは、液体クロマトグラフィー(LC)による化合物の溶出時間と、質量分析(MS)による分子イオンの断片化パターン(MS/MSスペクトル)を組み合わせることで、脂質の構造を解き明かすことができます。しかし、従来のLC-MS/MSは処理能力に限界があり、1検体につき1時間以上の計測時間を必要としていました。また、LCの計測時間を短縮する「高速LC法」が開発されましたが、解析できる脂質の種類が大幅に減少してしまうという技術的な課題がありました。
そこで本研究では、脂質の検出感度を維持しながら処理能力を高めることを目的に、同一の分子量を持つ脂質から構造解析に適した精度の高いMS/MSスペクトルを取得できる「DDA法(注4)」と、脂質分子の分子量を問わず網羅的にMS/MSスペクトルを取得する「DIA法(注5)」の、異なる二つのMS/MSの手法を組み合わせて使う「Hybrid MS法」を考案しました。そして、Hybrid MS法から得られる複雑なデータセットから短時間で脂質多様性を捉えるための、解析プログラムの機能拡張にも取り組みました(図2)。

研究体制
本研究は、東京農工大学生命工学科学部4年生の時吉花菜子、同大学工学研究院・産学連携研究員の松沢佑紀、竹田浩章、同研究院の津川裕司テニュアトラック准教授、同大学農学府大学院生の長谷川真由、同農学研究院の宮本潤基テニュアトラック准教授、理化学研究所環境資源科学研究センターテクニカルスタッフの高橋みき子によって実施されました。本研究はJST-ERATO「有田リピドームアトラスプロジェクト」JPMJER2101、JST-NBDC「次世代低分子マススペクトルデータベース シン・マスバンクの構築」JPMJND2305、AMED新興・再興感染症研究基盤創生事業21wm0325036h0001、AMED革新的技術による脳機能ネットワークの全容解明JP15dm0207001、JSPS科研費挑戦的研究(開拓)21K18216、国立がん研究センター研究開発費「質量分析インフォマティクス」2020-A-9、東京農工大学融合研究支援制度(TAMAGO)の支援を受けて行われました。

研究成果
本研究で開発したHybrid MS法の概要を図3に示しました。本アプローチでは、高速LC法を利用して分析時間を従来の3分の1に短縮しながら、解析可能な脂質分子の種類を維持する技術の開発に成功しました。多くの人が利用しやすいように計測手法は従来のものから大きく変更せず、通常の実験で行われる前処理や計測ガイドラインを有効利用した設計を行いました。
質量分析装置を用いた解析では、様々な条件によって装置の感度が変動し、同じ検体を分析しても値に大きな違いが生じることがあります。そのため、実際に調べたい試料の解析を行う前後に「QCサンプル(注6)」と呼ばれる標準試料を解析することで、装置の検出感度のモニタリングやデータの標準化を行うことが一般的な実験手順です。Hybrid MS法では、この工程を活用して、実際に調べたい試料すべての混合液をQCサンプルとして用い、分子イオンの質量の計測範囲を変えながら複数回解析することで、調べたい試料に含まれている脂質分子由来のMS/MSスペクトルをすべて取得できるようにしました。そして、実際に脂質多様性を調べる対象となる生体試料の分析には、従来法と同じく、MS/MSスペクトルを高い精度で取得できるDDA法を用います。これにより、理論上すべてのサンプルに含まれる脂質分子に由来するイオンのMS/MSスペクトルを取得することが可能となります。
また、このHybrid MS法で得られた大規模かつ複雑なデータを解析できるようにするため、質量分析データ統合解析プログラム「MS-DIAL(注7)」の機能拡張を行いしました。
本手法の有用性を、臨床研究でよく使われる血漿試料や糞便試料を用いて検証しました(図4)。その結果、分析時間を1検体あたり20分に設定した高速LC法+DDA法のみの場合は268種(血漿試料)と320種(糞便試料)の脂質分子を同定できたのに対し、Hybrid MS法では同じ時間でおよそ2倍の468種(血漿試料)と679種(糞便試料)の脂質分子を同定することができました。また、高速LC法の課題であった定量性の低下も認められないこと、1検体に1時間かかる従来のLC-MS/MSで得られる各脂質分子の発現量と同等の情報が得られることがわかりました。さらに、血漿試料から特定した脂質分子468種は、従来のLC-MS/MSで特定できる脂質分子491種のうち95%をカバーすることがわかりました。これらのことから、Hybrid MS法は従来法の3分の1の分析時間でありながら従来法と同等の網羅性を有していると考えられます。

今後の展開
本研究で開発したHybrid MS法および解析プログラムの拡張機能は、従来のLC-MS/MS法と同等の網羅性や定量性を維持しながら高い処理能力を有しています。そのため、LC-MS/MSを用いたノンターゲットリピドミクスの新たな標準的手法として、脂質多様性の生理学的重要性など、基礎生物学的な発見への貢献が期待されます。近年では、コホート研究に対して質量分析を用いたリピドミクス技術を適用することが、有用な診断バイオマーカーの新たな発見と検証につながっています。Hybrid MS法の利用が広まることで、1万人を超えるような大規模なコホート研究にもノンターゲットリピドミクス技術が適用可能となり、新たな臨床知見の獲得にも寄与できると考えています。
今後、Hybrid MS法のさらなる改良に向けて、脂質を濃縮するための前処理法の最適化や、最先端の質量分析手法および機械学習などを組み合わせながら、脂質の分析、処理能力の向上を図り、新しい脂質を発見しデータベースを拡充していきます。

用語解説
注1)質量分析法
物質を原子・分子レベルの微細なイオンにし、その質量と電荷数の比(m/z)を測定することにより、物質の同定や定量を行う方法。物質を構成する原子・分子を直接ひとつひとつイオン化して測定するため、超高感度な測定、物質同定が可能。特にリピドミクス解析においては、装置内で脂質分子に高エネルギーを与えて断片化させることによって特有の分子イオンの断片化パターン(MS/MSスペクトル)を取得し、化学構造を推定する。

注2)ノンターゲットリピドミクス
特定の生体分子を計測対象とする「ターゲット解析」に対し、「ノンターゲット解析」では、質量分析を通じてすべての分子を一括で計測・解析する。幅広い情報を得られるが、同時にデータが複雑になるという難点もある。「ノンターゲットリピドミクス」は、脂質の総体を特定の数に制限せず、ノンターゲット解析によって包括的に捉える手法を指し、これにより脂質の多様性をより包括的かつ詳細に理解することが可能となる。

注3)コホート研究
仮説として考えられる要因を持つ集団と持たない集団を追跡し、両集団の疾病の罹患率を比較する研究手法。どのような要因を持つ者が、どのような疾病に罹患しやすいかを究明し、かつ因果関係の推定を行うことを目的としている。

注4)DDA法
Data Dependent MS/MS Acquisition法。存在量が多い分子を優先してMS/MSを取得する方法である。目的とするイオンのみを質量分析内で選択してMS/MSを取得するため、構造とスペクトルの関連性を紐づけることが容易であり、新規分子の構造解析に適している。

注5)DIA法
Data Independent MS/MS Acquisition法。存在量が少ない分子のMS/MSスペクトルも取得可能である一方、目的分子以外のMS/MSスペクトルも混在して取得してしまう手法である。混在するMS/MSスペクトルから選択性の高いMS/MSスペクトルを情報学的に抽出するアルゴリズムがMS-DIAL(注7)に実装されており、それと組み合わせることで網羅的な分子情報付与が可能となる。

注6)QC(Quality Control)サンプル
本研究においては、全サンプルの混合液をQCサンプルとしたが、QCサンプルの組成は研究目的によって異なる。たとえば血漿試料の場合は、世界中の研究者が購入可能な「標準血漿」が使用されることが多い。研究開始時に、分析装置の性能をモニタリングし、トラブルを早急に見極め、必要であればQC情報に基づいてサンプルデータを補正するといったことを可能にするのがQCサンプルの役割である。

注7)MS-DIAL
質量分析データ解析を行うオープンソースプログラム。津川が理化学研究所に在籍していた際に開発し、東京農工大学に移籍後も機能改良を継続している。過去のプレスリリースとして、「生命の脂質多様性を解明(https://www.riken.jp/press/2020/20200616_1/)」がある。

生体の脂質多様性をより短時間で解析する手法を開発 ~計測手法と情報処理技術の改良で大規模解析研究を加速~図1. LC-MS/MS(QTOF-MS型)の概要:LC-MS/MS(QTOF-MS型)は、化学的性質の違いにより化合物を分離する液体クロマトグラフィー(LC)と、その分離液から化合物の質量を分析するマススペクトロメトリー(MS)が連結したシステム。MSでは、LCにより分離された分子や原子をイオン化し、その質量を計測する。MSを連結(MS/MS)することにより、分子構造を推測することも可能。MS1: LC-MS, MS2: LC-MS/MS図2.分析時間の短縮に伴う技術課題:LCの分析時間を短縮した「高速LC法」では、LCの時間短縮に伴ってMS/MSを行える回数も少なくなるため、解析できる脂質分子の種類が減少してしまう。図の例では、MS1の解析を1回行った際、従来法ではMS2の解析を10回行えるが、高速LC法では3回しか行えない。本研究では、構造解析可能な脂質の網羅性を保ったまま分析時間を短縮することを目指し、DIA法とDDA法を組み合わせた新しいアプローチを開発した。図3.データ取得・解析戦略:高速LC法を用いて分析時間を従来法の3分の1に短縮しながらも、従来法と同程度の脂質解析の網羅性が得られる「Hybrid MS法」を開発した。(左)すべての生体試料の混合液をQCサンプルとして用いる。QCサンプルの計測にはDIA法を利用し、高速化によって不足するMS/MSスペクトルの情報を補って取得する。一方、生体試料にはDDA法を利用して構造解析を行う。(右)複数回のQC計測において、モニタリングする分子イオンの質量範囲を個別に設定した。図4.Hybrid MS法の有用性検証:(左)高速LC法により、1検体の計測にかかる時間が3分の1に短縮される。(中央)Hybrid MS法では、DDA法やDIA法単独で計測した場合に比べて高い網羅性が得られた。(右)従来法と同等の各脂質分子の発現量が得られた。検出された脂質分子由来イオンのピーク高さから、サンプル重量当たりの各脂質の発現量を概算し、対数変換した数値を各軸の値として使用した。


◆研究に関する問い合わせ◆
東京農工大学大学院工学研究院
生命機能科学部門 准教授
津川 裕司(つがわ ひろし)

◆報道に関する問い合わせ◆
東京農工大学総務部総務課広報室
科学技術振興機構広報課

◆JST事業に関する問い合わせ◆
 科学技術振興機構研究プロジェクト推進部ICT/ライフイノベーショングループ
今林 文枝(いまばやし ふみえ)
プレスリリース(PDF:1MB)

生物工学一般
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