遺伝子解析・安定同位体比分析・形態観察に有効
2020-12-24 国立極地研究所,創価大学,東京海洋大学
生物学では、採取した試料を持ち帰って分析するために、多くの場合、採取後すぐに凍結保存や試薬による固定・保存の処理を行います。固定・保存に用いられる様々な試薬(例えばホルマリンやエタノール)は分析目的によってそれぞれ一長一短があるため、複数の分析に適用可能な手法の開発が望まれていました。
国立極地研究所(所長:中村卓司)の佐野雅美特任研究員らの研究グループは、形態の維持が良好で、プランクトンなどの脆弱な海洋生物の固定・保存にしばしば用いられている「ルゴール液」(ヨウ素ヨウ化カリウム液、図1、注1)が、現在の海洋生態系研究で主要な研究手法である遺伝子解析や窒素・炭素安定同位体比分析(注2)目的での試料保存においても、長期にわたって有効であることを実験により示しました。
本手法は特に、極域での海洋生態系研究において重要な観測であるセジメントトラップ(注3)への活用が期待されます。セジメントトラップはその仕組み上、試料に対して一つの試薬で固定するしかありませんが、そこに本手法を用いることで、一つの試料から複数の分析ができるようになります。
また、凍結保存のような解凍時・解凍後の劣化や、エタノールのような組織の激しい収縮も発生しないため、極域のみならず広く海洋生態学、分類学に貢献するものと考えられます。
図1:10%中性ルゴール液で固定し1年以上保存した動物プランクトン試料。茶褐色に染色されるが、チオ硫酸ナトリウムにより脱色することが可能。中央の細長い個体はヤムシの一種。その右下の長い2本のアンテナを持つ個体は海洋における主要な動物プランクトンであるカイアシ類の一種。下部中央はクラゲの一種。右下のスケールバーは10mm。
研究の背景
フィールド採集を行う生物学では、試料を持ち帰って分析するために、多くの場合、凍結保存や試薬による固定・保存が必要です。特にプランクトン試料には脆弱なものが多く、採集した後に現場で速やかに保存のための処理を行うことが必須となっています。最適な固定・保存方法はその後に行う分析の手法よって異なり、例えば海洋生態系研究の分野では、形態観察であればホルマリンやグルタルアルデヒドなど、遺伝子解析であればエタノールや凍結保存など、安定同位体比分析などの化学分析であれば凍結保存などの固定・保存方法が用いられます。しかしながら、それぞれの方法に利点と欠点があるため(表1)、現場で試料を分割して各目的のための保存を行う必要があり、さらにそれができない場合には、分析の一部を断念せざるを得ないこともありました。そのため、様々な分析手法が用いられるようになった近年では、多様な分析に対応出来る保存方法が求められていました。
表1:主要な固定保存手法の分析・観測方法への適用の可否
そこで、佐野特任研究員らのグループは、一般には消毒液などとして知られ、海洋生態系研究では主に脆弱なプランクトンの顕微鏡観察目的に用いられる「ルゴール液」(ヨウ素ヨウ化カリウム液)に着目し、現在の海洋生態系研究で主要な分析手法である、窒素・炭素安定同位体比分析と遺伝子解析における、長期にわたる有効性を検証しました。
研究の方法と結果
まず、房総半島沖で動物プランクトンを採集後、2種類の濃度のルゴール液(5%、10%)でそれぞれ保存しました。また、比較のため、-60℃以下での凍結保存、5%ホルマリンでも固定・保存しました。
次に、これらの試料中の3種の動物プランクトンの窒素・炭素安定同位体比の値を6ヶ月にわたり測定したところ、10%ルゴール液で保存した試料の値は、この分析法で一般に用いられている凍結保存の試料との間に有意差はなく(図2)、凍結保存と同様に窒素・炭素安定同位体比分析に適していることが分かりました。
また、解凍後すぐに劣化の始まる凍結試料の場合は速やかな処理が必要ですが、プランクトン試料の選別と種同定には時間を必要とします。10%ルゴール液による固定試料では時間的制約が無いため、この問題を解決することもできます。
図2:動物プランクトンEuchaeta rimanaの窒素・炭素安定同位体比の変化(平均値±標準偏差)。左側が窒素安定同位体比、右側が炭素安定同位体比の値。縦軸は安定同位体比、横軸は各保存期間を示す。凍結保存試料と10%ルゴール液で保存した試料の間で大きな差が見られないことが分かる。ほかの2種のプランクトンにおいても、凍結保存試料と10%ルゴール液試料の値に有意差はなかった。
次に、遺伝子解析での有効性を調べました。固定・保存処理から18ヶ月後に、各保存方法の試料からDNAを抽出し、PCRによる遺伝子増幅を行ったところ、10%ルゴール液で保存した試料と凍結保存試料では明瞭な増幅が確認され、5%ホルマリン、5%ルゴール液で保存した試料ではほとんど増幅されませんでした(図3)。
さらに、遺伝子の塩基配列を確認したところ、10%ルゴール液と凍結保存の塩基配列に違いはなく、ホルマリン固定で見られるような塩基置換が生じないことが分かりました。このため遺伝子解析を行う上でもルゴール液による固定保存は有効であると考えられます。
図3. 動物プランクトンUndinula vulgarisについて、各試料を18ヶ月保存した後抽出したDNAを元に18S rRNA遺伝子V1 V2領域を対象にPCRした結果。10%ルゴール液試料と凍結保存試料で明瞭な増幅が確認された。ほかの2種のプランクトンでも、10%ルゴール液試料と凍結保存試料とで明瞭な増幅が確認された。
まとめと今後の展望
実験の結果から、10%ルゴール液による固定・保存は、従来知られていた形態観察に加え、窒素・炭素安定同位体比、遺伝子解析、いずれの目的にも使用できる、これまで海洋生態系研究で用いられてきた試薬の中で最も汎用性の高い固定保存方法であることが分かりました。コストの面でも、プランクトン試料であればエタノールの数分の1から数十分の1の費用で固定でき、また、凍結保存のように超低温フリーザーも必要としないため、導入も容易です。
本研究の成果は、極域での海洋研究で重要であるセジメントトラップでの観測で特に有効です。セジメントトラップは、長期間海中に係留してマリンスノーなどの沈降粒子や生物を捕集する装置で、海氷で船舶が近づけない南極海でも、年間を通じた生態系の観測を可能とします。セジメントトラップでの試料の保存には、これまでホルマリンや塩化第二水銀が主に用いられていましたが、表1に示したように、得られた試料が使用できる分析手法は限られていました。ここにルゴール液を用いれば、遺伝子解析に加えて顕微鏡観察や窒素・炭素安定同位体比分析を行うことができるため、複合的な解析が可能となり、南極海における海洋生態系の理解が大きく前進することが期待されます。本研究グループはすでに、ルゴール液を用いた南極海でのセジメントトラップ観測を実施しています。
また、近年の分類学で重要性が増している遺伝子解析には、エタノールによる試料の固定・保存が一般的ですが、脱水による組織の収縮が激しく、また試料が脆くなるため形態が破損する場合がしばしばあります。ルゴール液は形態の保存性が良好で、顕微鏡観察にも適しており、海洋生態系研究のみならず広く分類学への貢献も期待されます。
発表論文
掲載誌: Limnology and Oceanography: Method
タイトル:Effects of Lugol’s iodine on long-term preservation of marine plankton samples for molecular and stable carbon and nitrogen isotope analyses
著者:
佐野 雅美(国立極地研究所 生物圏研究グループ 特任研究員)
真壁 竜介(国立極地研究所 生物圏研究グループ 助教)
黒沢 則夫(創価大学 理工学部 教授)
茂木 正人(東京海洋大学 海洋環境科学部門 准教授)
小達 恒夫(国立極地研究所 生物圏研究グループ 教授)
DOI:10.1038/s41598-020-77488-y
URL:https://aslopubs.onlinelibrary.wiley.com/doi/full/10.1002/lom3.10390
論文公開日:2020年9月15日
注
注1:ルゴール液
ヨウ素・ヨウ化カリウム・純水で構成される。消毒薬などの場合は、さらにグリセリンなどが添加され調整されている。
注2:窒素・炭素安定同位体比分析
生物に含まれる炭素と窒素それぞれの質量の異なる原子の比率を調べることで、食物網やそれぞれの生物の栄養段階を調べる分析手法。
注3:セジメントトラップ
マリンスノーなど海洋の表層から深層へ沈降する粒子を捕集する装置(右図)。沈降する粒子は上層の生物活動の情報を含むため、長期間海中に係留することで長期にわたって生物活動の履歴を得ることができる。また海洋表層から深層への炭素輸送量の見積もりにも用いられる。
研究サポート
本研究はJSPS科研費(JP17H01618、JP17H06319、JP17K07579、JP18K14515)の助成、および、東京大学大気海洋研究所共同利用研究(受付番号157,2019)の支援を受けました。
お問い合わせ先
国立極地研究所 広報室